『心の悠遠――現代社会と瞑想』(10) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)

禅と向き合う――ここでは国や人種の違いはなく、ただ、人間同士が出会い、縁の中で学びを深める

ゴータミー 芥子の実の話

ブッダのところに、ゴータミーという裕福な家の女性が訪ねて来た時の話です。幾つも奇跡を起こしてきたブッダであれば、自分の願いをかなえてくれるのではないかと彼女は考えていました。その願いとは、わずか1歳で亡くなってしまった子供を、何とかして生き返らせてほしいというものでした。いくらブッダでも、死んだ人間を生き返らせることなどできないのでは? しかし、ブッダはゴータミーにこんな指示を出したのです。

「では、芥子(けし)の実を1粒でいいから持ってきなさい」

芥子の実というのは油を作る実で、当時のインドでは、ごく普通の食品でした。そんな簡単なことでいいのでしょうか? しかしブッダは、一つだけ条件を出したのです。

「ただし、芥子の実をもらうのは、誰も死人を出していない家からでなければなりません」と。

ゴータミーはこの時、それも全く難しいことには思えませんでした。そんな簡単なことで、「死んだわが子が生き返るなら」と、ゴータミーはすぐに実を分けてもらいに町へ向かいました。

ところが結局のところ、彼女は実を持ってくることができなかったのです。どこの家にもある芥子の実。最初は簡単なことだと思いました。しかし、「誰も死人を出していない家」が、全く見つからないのです。彼女はあらゆる場所に行き、死人を出していない家族を探し回りました。伝染病もあれば、戦乱もあった時代でしたから、家族の中から一人や二人、死人が出ているのが当然でした。それよりもまず第一に、「家族の中から死人を出していない」ということが有り得ないことなのです。

何年かした後、彼女は再び、ブッダのところを訪れました。ブッダが「どうですか、見つけましたか?」と問い掛けると、ゴータミーは、「見つかりませんでした。死んだのは自分の子だけと思っていたのですが、家族を亡くしたのは私だけじゃない。どの家族でも、必ず誰かが死んでいることを知りました。だから芥子の実は見つけられませんでした」と答えました。

それを聞くと、ブッダはほほ笑みながら言うのでした。「そうです。生ある者は、必ず死に向かいます。それは、誰も止めることができません。それが一つの流れなのです。それが一つの縁なのです。死ぬという縁なのです」と。

ブッダに最後の供養を布施したチュンダの逸話のように、このゴータミーの芥子の実の話もまた、縁としての死を説くものであり、そして何よりも一番のテーマは、私たちは縁という大きな流れの中で生かされているという教えである。「縁の中で生かされている」ことを受け入れ、これが当たり前のことであると認識すると、命に対して、人に対して、人生に対しての態度や意識が変わる。

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