心の悠遠――現代社会と瞑想(10) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)
人種や文化は違えど、ただ人間同士が坐っているだけ
昨年7月、米・ロサンゼルスの郊外にあるバルディー山に位置するバルディー山禅センターを訪れた。この禅センターは2014年に107歳で亡くなられた佐々木承周老師の坐禅道場で、今回はそこのサンガによる坐禅ならびに勉強会が、2泊3日で開催されたためだ。
承周老師は1962年にアメリカに渡り、それ以後、50年以上を日本に帰らず、臨済禅の普及に努められた方だ。このセミナーには、私を含め3人の講師が勉強会をリードするために招待を頂いた。私のほか二人は、ブラウン大学で道教を専門としているハロルド・ロス教授と、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で韓国仏教を教えているロバート・ボスウェル教授だ。ロス教授は承周老師と30年以上の付き合いがある古参の一人である。
セミナーでは、承周老師の提唱をまとめたものを使いながら、老師の禅の考え方が整理、確認されていった。ボスウェル教授は『六祖壇経(ろくそだんきょう)』を分かりやすく丁寧に講義した。私は、『般若心経』『白隠』『公案』の三つのテーマを一日一つずつ講義させて頂いた。
参加者は雲水衣(うんすいごろも)を着ている者が多く、男女合わせて約30人のメンバーが米国全土から集まった。中にはすでに自分の禅センターを持っている者、家族のある者、カップルで参加している者たち、昔のサンガに会えることを楽しみにして来た者たちと、まるで同窓会のような雰囲気も感じられた。
朝晩はしっかり3時間ずつ坐(すわ)った。日中は勉強会である。また、食事の際には、例えば、粥座(しゅくざ=禅寺での朝食)で白湯(さゆ)、ミントティー、コーヒーが用意されており、中にはコーヒーで洗鉢(自分の食器を湯できれいに洗う禅寺の食事作法の一つ)をしている人もいて、驚いた。
驚いたが、それと同時に、剃髪(ていはつ)をして、雲水衣を着て、真剣に洗鉢している姿を見ていると、同じ目的で一生懸命に禅を勉強している仲間たちだと思った。気持ちは一緒だなと。坐禅の時に一緒に坐っていると、人種とか文化とかは表の面であって、そういったもろもろの表面的な部分が評価判断の対象となることは一切なく、ただ人間同士が坐っているという思いがした。