『利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割』(34) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

画・国井 節

政治における正見・正思

「桜を見る会」をめぐって首相の公私混同をはじめ次々と腐敗が明らかになり、日本政治の頽落(たいらく)が露呈しつつある。もっとも報道各社によると、内閣支持率は落ちてきているものの、まだ不支持率を上回っている。この理由は何だろうか。

多くのメディアが権力の圧力に屈して、曖昧な報道をし続けるからだという見方もある。とはいえ、「桜を見る会」の問題に関しては、ある程度はテレビも取り上げていて、多くの国民が全く知らないわけではない。右派の支持者や経済的な受益者層の存在など他に幾つかの要因が考えられるが、長期政権下で政治家の不祥事に馴(な)らされてしまい、総じて国民の政治的関心が薄れて、問題に鈍感になっていることも挙げざるを得ないだろう。

民主主義は、主権者たる国民が最終的には政治を決める制度だから、その質的劣化の責任は、究極的には国民一般にある。平たく言えば、人々が政治を真剣に見て考えようとしなければ、問題が起こっていても何も変わらないのだ。仏教的用語を用いれば、人々が政治について「正見」や「正思」をしようとつとめているかどうか、が問われているのである。

政治を正しく見て考えるという公共的な徳

「徳義共生主義」(コミュニタリアニズム)は、字のごとく、人々が美徳を持って倫理的に善い生き方をすることを重視している。正直に生きるとか、隣人に優しくするというのが日常的な美徳だが、「徳」の中には、政治に関わるものもある。政治における正見や正思、つまり正しい世界観や価値観のもとで政治を正しく見て考えることも大事な美徳であり、公共的な事柄に関するものだから、「公共的美徳」という。

なぜ、あえてこれを「美徳」と言うのだろうか。政治についてしっかりと見て考えるためには、それぞれの生活の中で一定の注意を政治に向ける必要があり、そのためには時間とエネルギーが必要だ。今の世界においては、人々がそうしなければいけないという決まりはない。日々の労働や趣味・楽しみなどの私的な生活に忙しくて、なかなか政治的なテーマに意識を巡らせる時間がないという人も多いだろう。「政治は難しくて自分には分からない」という声もよく聞く。

だからこそ、それにつとめることは、尊いことなのだ。時間を割いて政治的ニュースをさまざまなメディアで注視し、テレビなどでたまたま見る出演者や芸能人などの発言を鵜呑(うの)みにせずに、正しく見ようとすることは、努力して初めて可能になる。自分なりに憲法や政治の仕組みを学んだり、信頼できる識者の意見を参考にしたりして、自ら正しく考えようとつとめることは、立派なことだ。だからこそ、このようにして政治に関わることが、公共的な美徳と見なされるのだ。

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