心の悠遠――現代社会と瞑想(9) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)

先祖のみ霊(たま)に供養の誠を捧げ、脈々と続くいのちへの感謝を深める。故人の遺志は今を生きるいのちに受け継がれていく(松原哲明師の墓前で。写真=筆者提供)

死は命の流れの通過点

私の祖父、故・松原泰道は102歳で遷化するまで、「生涯現役、臨終定年」をモットーに一生を布教一本に貫き、毎日、全国を駆け巡っていた。祖父の遺詩に、「私が死ぬ今日の日は 私が彼土(ひど)でする説法の第一日です」というものがある。「彼土」とは、あの世のこと。「私が死ぬその日は、あの世での私の説法の初日だ」という意味である。実は、私が祖父から聞いた直接の遺言はこれと二文字異なっているものもある。それは、「私が死ぬ今日の日は 私が地獄でする説法の第一日です」というものだ。

当時の私は、先に挙げた遺詩を、その言葉の意味の通りにしか理解できていなかった。なぜ地獄なんだろう、と不思議に思っていた。実際、「なんで地獄なんですか?」とも聞いた。「臨終定年」という言葉。「あの世」または「地獄」へ旅立っても説法をし続けるという言葉。今年の7月で死という別れから10年が経とうとしているこの令和元年に、祖父のとても深い想いが隠されていたように改めて思う。

今では、私はこのように考えている。「生涯現役、臨終定年」は、今、即今、この場所、この日、この瞬間を大事に、感謝して生きることが大切なのである、と。「私が死ぬ今日の日は 私が彼土でする説法の第一日です」「私が死ぬ今日の日は 私が地獄でする説法の第一日です」とは、死というものを、点として捉え、あくまでも通過点として考える。死は通過点だから止まってはいけないのだ。確かに、死は命・人生についての事実であり、私たちは皆、例外なく、死に向かって生きている。

ブッダの入滅時の最期の教えは、「無常」の真理である。ブッダは、常に変わり続け、必ず終わりがあるように存在している全ての現象の本質はどのようなものなのかを説かれた。永遠に続くものは何もないということだ。しかし、見方を変えればどうだろうか。つまり、死という現象もまた、無常の真理の中にあって、常に変わり続けており、その現象の終焉(しゅうえん)に向かうことになる。科学的には死というのは人間の最期であって、その先には何もないとされる。しかし、仏教的には死は通過点であると考えられるのではないか。無常の真理においては、死というものもまた、人生の一部であると教えるのである。

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