『心の悠遠――現代社会と瞑想』(12) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)

多忙な日常生活で立ち止まり、肩の荷を下ろす。心をリセットして、深呼吸――。「積極的な休息」が感謝の思いを呼び覚まし、豊かな人生を送る土台となる

毎日の生活がそのまま坐禅

私たち人間は、毎日の生活の中で怒り、恐れ、不安、焦り、憎しみ、嫉妬、悲しみといった感情に、常に振り回されている。このことが、単に駄目だというのではない。これは、われわれ人間が経験する当たり前のことであり、人間として生きている証しなのであるから、むしろ、これらをどうコントロールしていくかが大事になる。感情そのものが苦なのではない。その感情に執着してしまうことこそが、苦を生じさせるのである。苦の根源は「執着」と「欲求」だ。

私たちはとかく、感情に心が振り回されやすいのだが、その一方では、穏やかで安定した状態がスタンダードであると考える。人間の感情は安定がデフォルトセッティング(基本設定)と考える。しかし、こう考えてはどうだろうか。この「安定が基本設定」ということへの執着と欲求が苦の根源であると。実は、感情に心が振り回されていることが当たり前で、その心の状態が基本設定であると。裏を返せば、みんなが共通して持つ、人間を人間たらしめる仏性というもの、絶対的な尊厳と平等にある純粋な人間性というものが、必ず心の奥底にプログラムされていると考えられるのだ。

心配、不安、焦り、悲しみ、怒りなどの湧き上がってきた感情に振り回され、のみ込まれそうな時は、第3回で紹介したコップの話を思い出してもらいたい。

透明なコップに水と土を入れ、箸でぐるぐるとかき混ぜる。途端にコップの中の透明度は失われ、持ち上げて、どの角度からのぞき込んでみても、中に何が入っていたか判別が難しくなる。ここで一度、平らな場所にコップを静かに置いてみる。かき混ぜられて渦を巻いていた泥水は、少し待っている間に少しずつ波が静まっていき、落ち着きを取り戻す。そして、時間が経つとともに、重たいものは下へと沈み、コップの中に入っていた物がはっきり分かるようになる。さらに、ただの泥水だったものが、水と土、枯れ葉、小さな虫など、さまざまなもので構成されていたこと(新たな発見)に気づく。こうして、心が乱れていた時には分からなかった、自分の心の状態を分析できるようになるのだ。

私たちはまさにこのコップの中の水である。気持ちがざわつく時、感情に振り回される時、私たちの心はかき混ぜられたコップの泥水の状態である。そのままでは原因がどこにあり、自分が何を考え、どう受けとめているのか分からない。だから、日常生活の中でいったん、この「コップを置く」ことが大事になる。実は、このコップを置くという動作こそが、坐禅である。つまり、言い換えれば、「坐(すわ)る」という行為が特段に坐禅ということではない。このコップを置くという坐禅の本質が分かると、歩くことも、食事を作ることも、掃除をすることも、日常のどこでも、いつでも坐禅ができるのである。

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