「時代」の声を伝えて――文学がとらえた80年(25)最終回 文・黒古一夫(文芸評論家)

「文学の役割」を考える――「『時代』の声を伝えて」を終えて

昨年1年間、本紙デジタル上で月に2回、70年以上にわたる「戦後」の文学史の中から、その時々の社会状況や問題に深く切り込む小説を取り上げて論評してきた。そこで改めて確認できたことがいくつかあった。まずは、私の思想遍歴を挙げながら、そのことに触れさせて頂く。

私は、大学院の修士論文が単行本となった『北村透谷論――天空への渇望』(1979年)から、昨年刊行の『原発文学史・論』まで約40年間で、32冊の作家論や文学論集、加えて20冊を超える編著を上梓(じょうし)してきた。それらを通じて、「(明治維新以来の)近代とは何であったのか」、さらに「人間はいかに生きるべきか」を愚直に問い続けてきたことが間違いではなかった、ということがあった。

1960年代後半に「読書」が中心の大学生活を送っていた私が遭遇した「政治の季節(学生反乱・全共闘運動)」は、「豊かさ」と「幸せ」をもたらすはずの「高度経済成長」政策が、実は人間(生命)をスポイルする面を多分に持っていることを教えてくれた。しかし同時に、私を「政治」から、人間の生き様を根源から描き出す、あるいは問う「文学」へと向かわせるきっかけにもなった。そして、25歳で自裁した明治黎明期の早熟な詩人であり、評論家、作家でもあった北村透谷と“格闘”した学部卒業から修士論文の完成までの10年間で、今では常識ともいえる「文学作品は時代を刻印し、と同時に時代や国境を超える」ということを学んだ。

【次ページ:異国での「日本文学」観に触れて】