「時代」の声を伝えて――文学がとらえた80年(24)番外編8 文・黒古一夫(文芸評論家)

ユートピアを求めて(8)――「沈黙」の先に現れてくるものは……

この連載の2回目に、2011年3月11日の東日本大震災後に起こった「フクシマ」(東京電力福島第一原子力発電所の事故とその被害)に触発されて書かれたディストピア(反ユートピア)小説の代表として、北野慶の『亡国記』(2015年)を取り上げた。

フクシマから8年が経とうとしている現在、避難地区(居住制限区域や帰還困難区域を含む)内の動脈と言っていい国道6号線や東北自動車道を走ってみるとすぐに分かるのは、「フクシマは未だ収束していない」という事実である。人っ子一人いない田畑、生活の気配を全く感じさせない住宅、そして田畑のあちらこちらに山積みになっている放射能汚染土や草木を詰めたフレコンバッグが散見される。こうした現実を眼前にすると、人間(人類)は「核」と共存できないのだということを、改めて思い知らされる。

その意味で、国民の6割から7割が願っているといわれる「原発ゼロ」を無視し、経済界(電力業界・電気事業連合会)の強い要望があるからという理由で、政府方針に忠実な原子力規制委員会という「隠れ蓑(みの)」を使って「安全」を謳(うた)い文句に原発再稼働を推進し、更には開発途上国へ原発輸出を目論(もくろ)む現政権の在り様は、「未来」に対して責任を持たない刹那主義なのではないか、と思わざるを得ない。今こそ、私たちは「50年先」「100年先」の暮らしの在り方を考えて、フクシマのことや「核」のことを考えなければならない。

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