「時代」の声を伝えて――文学がとらえた80年(20) 番外編4 文・黒古一夫(文芸評論家)
「ユートピア」を求めて(4)――「反日本」の彼方へ
1960年代に本格化した高度経済成長は、日本を世界で有数の経済大国へと押し上げた。その原動力になったのは、自民党総裁選挙の候補者の一人だった田中角栄が1972年6月11日に発表した「日本列島改造論」(同年6月20日に日刊工業新聞社から単行本として刊行)であった。
田中は、同年7月の総裁選に勝利し第64代内閣総理大臣になるが、「工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる“地方分散”を推進する」との政策を推し進めたのである。つまり、田中は地方都市を工業の中核地帯とすることで、明治の近代化以来、戦後になっても変わらなかった日本の産業構造を根本から変えようとしたのである。
言い換えれば、田中は農業・漁業・林業といった第一次産業中心だった日本の産業構造を、全国的規模で第二次産業(鉱工業、建設業、電気・ガス事業など)や第三次産業(小売業、サービス業、教育・情報業など)中心の国へと大規模に転換しようとしたのである。そして、この産業構造の大転換を促す「政策」の一つが、「日本列島改造論」の提起に先立つ1969年に始まった「減反政策」である。この政策は現在も続いている。米余り現象に対して、政府が「奨励金(補助金)」を出して稲作を計画的に休止させる――かつてない大胆な農業政策は、食料自給率の低下という現実に目をつぶり、やがて小規模農家に壊滅的な打撃を与えることになる。「猫の目」のように変わる農政の始まりであった。