弱小チームから常勝軍団へ~佼成学園高校アメリカンフットボール部「ロータス」クリスマスボウル3連覇の軌跡~(3) 文・相沢光一(スポーツライター)
日大、シルバースター、そして佼成学園へ
東松氏がチームにもたらしたのは、それだけではない。運動部の指導者にありがちな上から目線の指導はせず、部員の意見を聞き、自ら練習に向かわせようとする姿勢を取った。ポジションごとに役割をまっとうするアサイメントの重要性や、それを覚えて実践することの面白さも教えた。そうした以前とは異なるコーチングとチームづくりをして1年後に迎えたのが、1986年春のシーズンだった。
東松コーチの指導によって部員たちは自らの成長を実感し、強豪の大学付属校と対峙してもおじけづかなくなった。部員数が少ないため、主力はオフェンスとディフェンスの両方に出続けなければならなかったが、運動能力の高い選手がそろっていたことで、そのハンデも克服できた。それが、関東大会準優勝に結びついたのだった。
「東松先生のおかげでプレーする楽しさや、喜びが感じられるようになりました。なにより、関東大会の決勝まで行けたという成功体験を得られたことも大きかった。野球に対する未練もなかったわけではありませんが、それを振り切り、大学でもアメリカンフットボールを続けることにしたんです」
その小林監督が進学した先が日本大学だった。日大フェニックスは大学アメリカンフットボールの東の雄。全国から有力選手が集まり、部員数は150人に達する。当然、部内の競争は激しいが、ここでも小林監督は1年から試合出場を果たす。RBとしてずば抜けたセンスをもっていたからだ。そしてレギュラーとしてプレーした2年、3年、4年時にはチームが甲子園ボウルで優勝。3年連続大学日本一という功績に貢献したのだ。しかも、3年、4年時はMVPにも輝いている。昨年まで73回を数える歴史ある甲子園ボウルで、2年連続でMVPを獲得した選手は小林監督しかいない。
当時の小林監督のプレーを、高校・大学と同じチームで見てきた関孝英氏はこう語る。
「今でこそガッシリとした体型ですが、大学時代は60キロ前後しかなかったはずです。ただ、その分、瞬間的なスピードや体のキレ、ボディバランスは目を見張るものがあった。また、相手のギャップを見抜く感覚にも秀でていました。それと私が一番買っていたのは、大事な場面での勝負強さです。ここで大きくゲイン(前進)すれば優位に立てる、という場面では必ずビッグプレーをする。頼れるRBでしたし、“もっている”男でした」
教員志望だった小林監督は日大卒業後、都内の複数の高校に非常勤講師として採用されて体育の授業を受けもつようになる。その中に母校の佼成学園も含まれており、コーチになった。が、日大3連覇に貢献したRBを社会人チームが放っておくはずがない。トップレベルの実力を誇り、アサヒビールがスポンサーになったばかりのクラブチーム・シルバースターにオファーを受け、入団する。ロータスのコーチをしながら、シルバースターの現役選手としても活躍していた東松氏に続いた。
そして3年後の1993年、佼成学園に正式に教諭として採用され、ロータスの監督に就任。指導者兼現役選手、二束のわらじを履く生活が始まった。
プロフィル
あいざわ・こういち 1956年、埼玉県生まれ。スポーツライターとして野球、サッカーはもとより、マスコミに取り上げられる機会が少ないスポーツも地道に取材。著書にアメリカンフットボールのチームづくりを描いた『勝利者―一流主義が人を育てる勝つためのマネジメント』(アカリFCB万来舎)がある。
弱小チームから常勝軍団へ
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