弱小チームから常勝軍団へ~佼成学園高校アメリカンフットボール部「ロータス」日本一3連覇の軌跡~(4) 文・相沢光一(スポーツライター)

1994年、25歳で「ロータス」の監督に就任した小林孝至監督。佼成学園高校の体育教師でありながら、社会人クラブチームの雄「アサヒビール・シルバースター」の若き現役選手でもあった小林監督による指導が始まった。

好きになれば、夢中になる

運動部の強化に励む私立高校では、その競技で実績を残した人物を指導者として招くことがよくある。経験に培われた手腕に部を託そうというわけだ。中には、高待遇で迎える代わりに、全国大会へ出場して日本一を争うまでに指導することを要求し、達成できなければ解任という厳しいケースもある。だが、小林監督の就任にそうした意味合いはなかった。

「OBとして大学時代(日本大学)も指導に来ていましたし、非常勤講師になって3年間はヘッドコーチを務めました。そして、教諭として正式採用されたことを機に監督になりました。進学校で受験のことも考えなければなりませんし、それまでの戦績から見ても、とても強豪校と対等に戦えるチームになるとは思えなかったです。定年までの40年で、メンバーに恵まれれば、1度くらいは(日本一決定戦の)クリスマスボウルに行くチャンスが訪れるかな、という状態でした」

それでも、指導を任された以上は部を強化して部員たちに勝つ喜びを味わわせてあげたかった。そこから、小林監督の過酷な日々が始まった。

毎朝6時には起床し、7時過ぎに出勤。授業や教師の仕事を午後4時過ぎまでこなした後、練習グラウンドに移動し、午後7時までが部活の指導。それからシルバースターの練習場がある川崎まで車を走らせ、日本一のチームの厳しい練習に参加した。練習が終わるのは午後10時時半頃で、ストレッチをしてシャワーを浴び、ようやく食事を取る。帰宅時刻は午前12時を回った。睡眠は5時間足らず、心身ともに酷使しながら、満足な休息も取れない日々を過ごした。

「シルバースターはクラブチームですから、メンバーは昼間に自身の仕事をちゃんとこなした上で練習に来ている。弱音を吐く人などいませんでした。大変そうにするのは、むしろカッコ悪いという感じでした」

過酷な日々の中で、ロータスの指導にも全力を注いだ。強くなれば、部は周囲に注目される。注目されれば、部員も増えてさらに強いチームになる。その一心で指導で当たった。

しかし、弱小だったロータスに自ら希望して入部する部員は少なかった。そのため、部員確保のためにまずは小林監督自らが生徒を勧誘していた。説得に応じて入部してくる部員もいるが、多くはアメリカンフットボールの面白さどころか、ルールさえ知らない。前向きに部活動に励ませるためには、まず「好きになってもらうこと」が先決だった。

小林監督自身がそのような指導を受けたことも影響している。アメリカンフットボールに興味はなかったが、運動能力を買われて中学3年の夏にロータスに入部した。モチベーションが上がらないまま練習を続けていた時、新任の東松宏昌ヘッドコーチの実演指導によって競技性と面白さを知り、のめり込むようになった。

そして大学、社会人とプレーを続けて日本のトップレベルの選手にまでなった。そんな自らの経験を指導者として生かしたいと考えたのだ。ただ「好きになる」レベルではなく、「プレーをするのが楽しくて仕方がない」、「常にアメリカンフットボールのことを考えていたい」という域まで持っていきたい、と。

しかし、「言うは易く、行うは難し」が実情だ。アメリカ発祥のスポーツだけあってスタイリッシュなイメージもあるが、実際にプレーするとなると過酷な競技だからだ。

最大の特徴は激しい体のぶつかり合い。ヘルメットやショルダーパッドなどの防具を身に着けていても、相手と当たれば痛いし、ケガもする。当たり負けしない体をつくるために大量の食事を取ったり、きつい筋力トレーニングを積み重ねたりする必要がある。初心者が多い高校のアメリカンフットボール部では、そのつらさに音を上げて退部する者も多い。

「アメリカンフットボールを始めたばかりの時、目の前に立ちふさがる壁があることは確かです。でも、そこで諦めるのはもったいない。そこを耐え、乗り越えることができれば必ず夢中になれるスポーツなんです」

そう語る小林監督は、1年生が壁を越えるための練習法をロータスで編み出した。

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