弱小チームから常勝軍団へ~佼成学園高校アメリカンフットボール部「ロータス」日本一3連覇の軌跡~(3) 文・相沢光一(スポーツライター)

激しい攻防に耐える体力と知的な戦略で得点を狙うチーム力が求められるアメリカンフットボール。部員数が少なく、試合では圧倒的不利な状況が長く続いていた佼成学園高校アメリカンフットボール部「ロータス」に、優秀な人材が集まり始めた。

変化の兆し

佼成学園「ロータス」は今年で創部45年目を迎えたが、創部から約30年間を弱小チームとして過ごしてきた。都大会は1回戦負けが当たり前。関東大会進出など考えられなかった。前回記したように部員数が少なく、試合では選手がオフェンスとディフェンスの両方をこなさなければならなかったことや、進学校のため大学受験に配慮しなければならないことなどが、その原因に挙げられる。

しかし、そうした厳しい状況にありながら好成績を残した年があった。創部12年目の1986年だ。春季都大会で4位。初めて進出した関東大会では、なんと準優勝を成し遂げた。秋季は受験の心配をせずに部活に専念できる大学付属校に差を拡げられたが、それでも都大会でベスト16まで進出している。

この年にヘッドコーチを務めていた東松宏昌氏(現・佼成学園中学アメリカンフットボール部監督)は語る。

「部員は相変わらず監督(天野博氏)が勧誘した生徒でした。なんとかチームをつくれていた状態でしたが、この年はなぜか運動能力の高い部員がそろったのです。まさに少数精鋭集団。常識的に考えれば、多くの部員がいる大学付属の強豪校にかなうわけがないのですが、それでも春季関東大会で準優勝できたのは、それを補って余りある能力がある選手がいたからです。不思議な巡り合わせを感じました」

この時のチームで、オフェンスではランニングバック(RB)として得点源となり、ディフェンスではコーナーバック(CB)として失点の危機を防ぐ活躍をしたのが、現在、ロータスの監督を務める小林孝至氏だ。もちろん、アメリカンフットボールはオフェンス11人、ディフェンス11人が対峙し、一方は前進しようとし、もう一方はそれを食い止めようとするチームプレーであり、一人ずば抜けた選手がいたところで優位になるわけではない。少ない部員数ながら、与えられた役割をまっとうできる運動能力の高い選手がそろっていたから、この年のロータスは関東大会準優勝の好成績を残せたわけだ。いずれにしても、そこに不可欠な存在だったのが小林監督だったことは確かだろう。

ところが、佼成学園に入学する前の小林監督はアメリカンフットボール部に入ることなど考えてもいなかった。

「子供の頃の夢はプロ野球選手になることで、それを実現するために中学受験をし、佼成学園中学に入りました」

通っていた渋谷区の小学校が運営する野球チームに入り、内野手兼投手としてプレーした小林監督。走攻守のすべてに秀でており、チームではキャプテンを務めた。周囲の期待も大きかったという。

佼成学園高校野球部は1966年と1968年の春、1974年の夏の計3回、甲子園に出場しており、西東京大会では常に上位に進出する強豪だ。その佼成学園の中学で鍛えられ、高校で甲子園出場を果たす。それが夢に近づく道と考えたのだ。

中学野球部の練習は厳しかったが、それにも耐え、1年時にセカンドのレギュラーを獲った。順調である。ところが、年が明けてすぐに部を辞めてしまった。きっかけは親友の退部だった。

「彼も1年でレギュラーになっており、互いに刺激し合える仲でした。でも、当時の野球部にあった上下関係などに悩んで辞めてしまったんです。切磋琢磨するライバルがいなくなったことがショックでした。中学で野球を続ける意欲はもてず、高校に進級してから野球部に入り直し、甲子園を目指そうと考えました」

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