『心の悠遠――現代社会と瞑想』(3) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)

坐禅に取り組む、米・コーネル大学の学生たち。心を静め、自分自身と向き合う中で、本来の自己や仏性を発見していくことが坐禅の目的とされる(写真=筆者提供)

マインドフルネスと禅

ここ数年の間で日本でもよく耳にするようになった「マインドフルネス」は、仏教から宗教色が排除されたアメリカ発祥の瞑想(めいそう)法などとも紹介され、逆輸入のような形で日本にもブームをもたらした。

私は禅とマインドフルネスの違いについてよく質問をされるが、私の中では禅とマインドフルネスの間に垣根はない。もちろん、学問的にそれぞれの歴史の変遷を学ぶことは、それぞれの瞑想方法が異なった伝統形態として、どのように発展してきたかを学ぶことに直接つながるため、大変重要である。ただ、瞑想という大きな傘の下に禅があり、マインドフルネスがあり、ヨガがある。瞑想へのアプローチの仕方や強調するところがそれぞれ異なるだけで、黙想という瞑想の大きな目的は同じだと私は考える。

生きている以上、思考を止めることはできず、湧き上がる感情を無視することもできない。「私は今、こう思い、こう感じている」。事実をありのままに受けとめれば良いと分かっていても、心をかき乱されるような出来事に遭遇する日もあれば、小さなことでイライラしてしまう日、クヨクヨしてしまう日と、いろんな毎日がある。心配、不安、焦り、悲しみ、嫉妬、怒り。湧き上がってきた感情に振り回されたり、のみ込まれたりしそうな時は、これから説明するコップの話を思い出して頂きたい。

透明なコップに水と土を入れ、箸でぐるぐるとかき混ぜた様子をイメージしてみてほしい。かき混ぜた途端にコップの中の透明度は失われ、コップを目の高さまで持ち上げ、どの角度からのぞき込んでみても、中身はごちゃ混ぜになり、何が入っていたか判別することはできなくなる。

そこで、平らな場所にコップを静かに置いてみると、混ぜられて渦を巻いていた泥水は、少しの間にどんどん波が静まっていき、落ち着きを取り戻す。そして、時間が経つとともに、重たいものは下へと沈んでいき、再びコップの中身がはっきりと分かるようになっていく。

このかき混ぜられた泥水こそが、私たちの心の状態だ。私たちの日常は、いつなんどきも感情に振り回されており、手放すにしろ執着するにしろ、湧き上がってくる感情に対処することを繰り返している。

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