心の悠遠――現代社会と瞑想(12) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)

日々の行動の中で心を静めることこそ坐禅の本質だ(写真=筆者提供)

生かされていることへの感謝を

現代の風潮を見ると、禅寺に行かないと坐禅ができないとか、仕事を休んで山にこもらないと坐禅ができないと考えているような気がするけれども、それは間違いである。毎日の生活の中がどんな時もそのまま坐禅の機会となる。むしろ、毎日の忙しい生活の真っただ中にあって、坐禅の意義を見いだしていくことが大事である。ふと不安がよぎった時、イライラした時、悲しい時など強い感情が押し寄せてきた際に、「大丈夫。私は今、泥水のコップの中にいるだけ」と思うことで気持ちが落ち着き、暴走する感情に対応できるようになる。

メンテナンスをせずに走り続けた車はどうなるか。そのうち水もオイルもなくなり、辛うじて残っているガソリンで走り続けているけれど、車はどんどん熱くなり、間もなくオーバーヒートして止まる。それを回避するには、まず止まること。ボンネットを開けて風を通し、熱を冷ますこと。それから水を入れ、オイルを入れ、また元のように走れる状態にしていく。これは車だけのことではない。私たちの持つコンピューターやスマートフォンも、どんどんデータが蓄積され、アプリをダウンロードし、大量に撮った写真を保存していったら、反応が遅くなる。定期的にいらないものを消すなどのメンテナンスをしないと、快適に動いてはくれない。コンピューターがフリーズして動かなくなった時はリセットしたり、コンセントを抜いたりして、一度、電源を切らなければ、再起動しない。

人間も同じである。私たちもやはり、走り続けることはできない。短期的には頑張れるかもしれないけれど、それをずっと続けることは不可能である。再起動するためには、一度リセットしなければいけないのである。その道理に基づけば、休むことがそのまま「積極的な休息」であり、そのような休息を時には取っていくことが必要である。私たちには限界がある。その限界を知ることは大変、大事なことである。

コップを置いて心静かにしていくと、「感謝」という気持ちに触れることができる。全てに、感謝。この世に生まれ、存在していること。他者が存在することによって、自分が生を感じられること。感情があるからこそ、成長できること。毎日、食事が取れること。屋根のある場所で眠れること。山田無文老師は「お互いは生きておるのではない、生かされておる」と言われた。われわれは一人で生きることはできない。息が止まったら死ぬ。この生かされていることへの感謝は、私たちの生活の土台となる。

もちろん、感謝の心で暮らしていても、瞬間的に、一時的に心が荒れてしまうことがある。そんな時は、コップの話を思い出してほしい。いったんコップを静かに置き、深く呼吸をしてみる。「ありがとう」と深呼吸の組み合わせは大変重要である。私は人生の終わりに「ありがとう」と言える生き方をしたいと思っている。もし、死を前にしたならば、やはり恐怖心も湧き上がる。それでもなお、家族に出会えたこと、その日の出会い、口にしたもの、水の一滴、全てに感謝をしていたいと思う。そのために日々精進をしていきたい。

プロフィル

まつばら・まさき 1973年、東京都生まれ。『般若心経入門』(祥伝社黄金文庫)の著者で名僧の松原泰道師を祖父に、松原哲明師を父に持つ。現在、米・コーネル大学東アジア研究所研究員、ブラウン大学瞑想学研究員を務める。千葉・富津市の臨済宗妙心寺派佛母寺住職。米国と日本を行き来しながら、国内外への仏教伝道活動を広く実施している。著書に『心配事がスッと消える禅の習慣』(アスコム)。