心の悠遠――現代社会と瞑想(9) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)

人生に遺すのは感謝のみ

フランスの詩人ジャン・タルジューの詩に、「死んだ人々は 還(かえ)ってこない以上 生き残った人々は 何が判(わか)ればいい?」というものがある。死というものに直面した、その意味を現在、遺(のこ)された人たちに説いている。その人の死によって、その人が生きていたら決して分からなかったであろうことに、われわれ生きている者が気づくことが大切なのである。

死や別れは難しい。本当に、ただ難しい。これを簡単に感じるという人間は一人としていないであろう。正直に申すと、私は今回の文章を自分に説きながら、自分に対して書いている。

死や別れは一つの終焉である。しかし、終焉なはずだけれども、私たちは「また生まれ変わったら一緒になろうね」と願う。「すぐにいくから待っててね」「向こうで待ってるよ」「ずっと一緒にいるよ」「いつも応援しているよ」「いつでも味方だよ」「またどこかで会おうね」と、どこまでも続章を願うし、そう信じている。私の師父である故・松原哲明は2009年7月、両親の死に直面し、こう書き残した。

「人の死は一生に一回である。その死の一幕を、二人は同じ月に共に切って落とした。生は死と共にあった。死を伴って生きることは、同時に死ぬことである。去って行った二人は、だけど蘇(よみがえ)り、織り姫・彦星として私たちを見つめている」

私もそう信じる。「在るから信じるのではなく、信じるから在る」という世界で、友人や知人、そして、一番近くの者との別れを一つの人生の通過点としている。もちろん、私自身の「別れ」も一つの通過点として、続章を思い描いて生きていきたいと思う。こうして今、祖父が遺した「私が死ぬ今日の日は 私が地獄でする説法の第一日です」という言葉の意味が、私なりによく消化されてきている。私が人生に遺すのはただ、感謝のみ。全ての存在と現象にありがとうございました、と。

プロフィル

まつばら・まさき 1973年、東京都生まれ。『般若心経入門』(祥伝社黄金文庫)の著者で名僧の松原泰道師を祖父に、松原哲明師を父に持つ。現在、米・コーネル大学東アジア研究所研究員、ブラウン大学瞑想学研究員を務める。千葉・富津市の臨済宗妙心寺派佛母寺住職。米国と日本を行き来しながら、国内外への仏教伝道活動を広く実施している。著書に『心配事がスッと消える禅の習慣』(アスコム)。

【あわせて読みたい――関連記事】
心の悠遠――現代社会と瞑想