心の悠遠――現代社会と瞑想(7) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)

「生きている」から「生かされている」へ

二つ目は「生かされていることへの感謝」。坐禅の中でゆっくり息を吸い、さらにゆっくりと息を吐きながら呼吸を整えていくと、徐々に心が落ち着いていく。出入する呼吸だけに意識を集中し、ゆっくりとした呼吸のリズムに身も心も委ねて心を静めていくと、一瞬一瞬、呼吸できることに必然と感謝の心が生まれる。今までの「今、生きている」から「今、生かされている」という意識に変わる。一瞬一瞬の呼吸が止まれば人は死ぬ。だから、呼吸ができているその一瞬一瞬に、ただただ感謝しかないのである。

呼吸というのはあまりにも身近なもの過ぎて、われわれは普段、その重要性に気づかない。しかし、われわれにとって一番大事なものが、実は一番身近にあったことに気づく。この「生かされていることへの感謝」の心が生まれてくると、全てのものに対して感謝の気持ちが生まれる。そして、全てのものに対して感謝の気持ちが生まれると、自然と「和合」「敬い」「共感」「つながり」といった気持ちが生まれる。

三つ目は「一期一会」である。こうして皆と出会え、一緒に坐禅し、食事し、掃除し、話し合い、お茶をしているのも、全てこの一瞬が最後。われわれを取り巻く全ての現象と一期一会なのだ。これが最後と思えば、コントロールできない過去や予期できない未来にとらわれず、今を生きたいと思う。これが最後と思えば、自分だけでなく、自然と他者のことを思うようになるのだ。

研修の休憩時に、学生たちからコーヒーが飲みたいとの声が上がった。私は大雨の中、車で往復30分かかる最寄りのコンビニエンスストアまで、コーヒーを買いに行った。誰からも「買って来て」と頼まれてはいないし、買いに行く必要はなかった。でも私は行った。どうしても飲ませてあげたかったからだ。コーヒーを目の前に差し出された学生たちは「え、どうして?」という表情をつくったかと思うと、次の瞬間、涙を流していた。ささいな出来事だが、私の中で「一期一会」の心が動いた瞬間だった。

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