心の悠遠――現代社会と瞑想(6) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)

小規模農業経営に従事する若者から話を聞く研修参加者。ニューヨーク州北部では、過疎化が深刻な問題となっている(写真=筆者提供)

社会問題と宗教の役割

2月18日より3月2日までの13日間、日本からの二人の僧侶と共にニューヨーク州北部の都市イサカを訪れ、現在、同地域で顕著に表れている過疎化とそれに関連したさまざまな社会問題、そしてアメリカを代表する問題である人権についての歴史を学んだ。私たち三人を迎えてくださり、親切丁寧に指導を頂いたのは、コーネル大学宗教学プログラムのディレクター、ジェーンマリー・ロー教授(以後、先生)である。

先生は、私がコーネル大学大学院で、2000年から2010年までの10年間、最初から最後までお世話になった指導教官である。この私たちの研修は、今年で2回目を迎えた。去年のテーマは『宗教間対話』であった。今年は私たちを取り巻く社会問題に目を向けて、それに対する宗教の立場と役割について考えることが目的であった。今年は初日からマイナス12度の寒さと吹雪で始まった。

私たちの研修はコーネル大学の学生との一泊坐禅リトリートからスタート。先生は自分の家に隣接する空き家を数年前に購入し、その庭に畑を作り、建物を改修して一部に学生たちが集まって坐禅ができるよう「禅堂」と呼ばれるスペースをつくった。この一泊坐禅リトリートには学生18人が集まった。禅堂は超満員であった。朝晩しっかりと坐禅をして、食事は持鉢(じはつ)を使った禅の作法で食べた。持鉢とは禅の修行僧が使う食器のことである。その食器を扱う上で音を出さないように集中することで「今」に集中する。また、その食器は自分の食べる分量が制限されるので、「限界についての価値」というものを教えてくれる。つまり、一緒に食べている他の人たちと共有する飯器から、汁器から、菜器から、自分が自分の持鉢に取った分だけがなくなり、その分だけ他の人たちの分がなくなるということを教えてくれる。これは他者を思う心の大切さと、全ての存在するものには限界があることを教えてくれる。資源、自然環境、人の心までそれは本当に全てである。

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