心の悠遠――現代社会と瞑想(3) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)

仏性は一人ひとりの中に

マインドフルネスと禅に大きな違いはないと申し上げたが、強いて言えば、マインドフルネスとは、特にヴィパッサナー瞑想を単独で強調しており、禅はサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想のどちらにも重きを置いていることが考えられる。

サマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想と違いはあるものの、禅もマインドフルネスも同様に、「今、私は、こうして、ここにいる」「今、生きている」と強調しながら「命」の重要性を説いている。つまり、この世にあるもの、形あるもの、意識、感情は全て移り変わり、一瞬として同じ時はなく、何一つ同じものは残らないという「無常観」「一期一会」、そして、私たちは森羅万象とつながっており、森羅万象によって生かされていると気づいていくことに目的があると私は思う。

一方で、マインドフルネスと禅に大きな違いがあることも特筆しておきたい。坐禅のゴールの一つは、仏性の発見にあるということだ。坐禅の「坐」という字は、土の上に人と人が坐(すわ)り、対話している姿を表している。誰が誰と対話しているのか、というと実は、自分と誰かではなく、自分ともう一人の自分が対話をしているのである。「自分が自分が」という「自我」と、本来の自分である「自己」とが対話している姿である。山田無文老師は『臨済録』の中の「一無位真人」という禅語について、自分の中に、位も性別も年齢も能力も超越した、世間の価値判断で価値を決めることのできない仏性、本来の面目があると説く。立派な主体性、絶対的な尊厳、平等に与えられている純粋な人間性というものは、生まれながらにして誰の中にも備わっているのだと教えている。これこそが、本来の自分「自己」なのだ。この本来の自己との対面が坐禅の目的になっている。

ふと不安がよぎった時、イライラした時、悲しい時、強い感情が押し寄せてきた時に「大丈夫。私は今、泥水の中にいるだけ」と意識する。感情の波はなかなか収まらないかもしれない。その時は、「泥水の土の分量が多いのかもしれない」と、そんなふうに考えて、コップの中身がクリアになるのを気長に待ってみる。もしかすると、この泥水の波は永遠に収まらないのではないか、自分はそこから逃れられないのではないか、このトンネルに出口はないのではないかと思ってしまうこともあるかもしれない。でも覚えておいて頂きたい。明けない夜はないように、終わりのない泥水の波もあり得ないのである。いつでも、どんな時でも仏性は私たち一人ひとりの中にあるのだ。

プロフィル

まつばら・まさき 1973年、東京都生まれ。『般若心経入門』(祥伝社黄金文庫)の著者で名僧の松原泰道師を祖父に、松原哲明師を父に持つ。現在、米・コーネル大学東アジア研究所研究員、ブラウン大学瞑想学研究員を務める。千葉・富津市の臨済宗妙心寺派佛母寺住職。米国と日本を行き来しながら、国内外への仏教伝道活動を広く実施している。著書に『心配事がスッと消える禅の習慣』(アスコム)。

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