心の悠遠――現代社会と瞑想(3) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)

かき混ぜられたコップの泥水はやがて静まり、その中身が判別できる。不安、悲しみ、怒りといった湧き上がってきた感情に捉われそうな時は、コップを置く――心を静め、本来の自己と向き合うことが重要だ

心を静め、ありのままを受けとめる

私たちの心は、常にかき混ぜられたコップの中の泥水のように混沌(こんとん)としているのである。いつも泥水のままで視界がクリアになる瞬間がなければ、自分の本心がどこにあるのか、何を大切にしたいと考えているのか、湧き上がった感情の何に反応して心が乱されているのか、分からなくて当然。だから、いったんコップを置き、心を静めることが必要になる。

そして、重いものが下に落ちたら、中身を観察する。泥の中には予期せぬ枯れ葉や小さな虫が交ざっていたことにも気づくのではないだろうか。この新たな発見は、日常では見落としていた、自分の本当の気持ち、本当の自分に出会うことにつながると言える。かき混ぜられたコップのような心をいったん静め、心が混沌とした泥水の時には見えなかったものを見ようとする。究極には、このコップを平らな所に置くこと、それが坐禅なのである。

つまり、坐禅瞑想には二つの目的があると言える。コップの話を思い出してほしい。泥水で濁ったコップを平らな場所に静かに置き、泥と水の区別がついてきた状態を「サマタ瞑想」と呼ぶ。これで、心が落ち着きを取り戻し、自己と向き合う準備が整っていく。

一方、心の落ち着きを取り戻し、泥の中に枯れ葉や小虫を発見したように、洞察・観察をしていくことを「ヴィパッサナー瞑想」と呼ぶ。一切の判断、評価をせず、湧き上がってくる感情、目に映るもの、耳に入ってくる音、鼻に感じる匂い、ありのままをそのまま受けとめる。

「外で子供が遊んでいるな」「お、いい匂いがした」「どこかで工事でもしているのかな?」「あ、犬が吠(ほ)えてるな」。まず、感じたことを感じたままに、ただ、受けとめる。次に、その時に、何に気がついたのかに注意を向けてみる。「どんな子が遊んでいるんだろう」「この匂い、何だろう。柑橘(かんきつ)系かな」「工事の音がうるさいな」と思うと、それは執着になってしまうため、深追いはせず、ただ、感じたままを受けとめる。執着してしまうと、執着のスパイラルに陥ってしまうからだ。瞬時の気づきは、「今、私は、こうして、ここにいる」「今、生きている」という心の状態に導いてくれる。

【次ページ:仏性は一人ひとりの中に】