「時代」の声を伝えて――文学がとらえた80年(24)番外編8 文・黒古一夫(文芸評論家)

原発事故から35年後の日本社会を舞台に

画・吉永 昌生

というのも、今回で最後となる「番外編(ユートピアを求めて)」の全体構想を考えていた時、黒川創のディストピア小説『岩場の上から』(2017年)を読み直して、このフクシマから35年経った日本社会を舞台にした長編が、あまりに「暗い未来図」しか描いていないことに、改めて愕然(がくぜん)とさせられたからにほかならない。『岩場の上から』に描かれた「核」を容認する「未来社会」は、決して私たちの生活を「豊穣」かつ「愉快」にしていないのである。

例えば、「政治」の意思決定が、長い間権力を恣(ほしいまま)にしてきた一人の政治指導者(総統と呼ばれている)の意のままになっている状態は、どこか現在の日本を暗示している。また、「軍隊」と呼ばれるようになった「自衛隊」の隊員が何万、何十万の規模で「積極的平和維持活動」と言われる「戦争」に参加するため海外の紛争地に出ているといったことが描かれている。それだけでなく、「自由権」や「抵抗権」といった国民の「権利」が大幅に制限された社会にあって、国民は「息苦しさ」に耐えながら、その日その日をやり過ごしている状況などが、さまざまに書き込まれているのである。

なぜ、そんな「閉塞感」で身動きが取れないような全体主義(ファシズム)的社会をフクシマから35年後の国民は容認してしまったのか。この小説の中では、「浜岡原発」の警備のために常駐していた陸軍(自衛隊)部隊の200名が「海外の戦地への派遣を拒否する」として原発敷地内に籠城することになった経緯を「反乱軍」のリーダーが説明するのだが、彼が発した次のような言葉こそ、全体主義的社会を招来してしまった「理由」と考えられる。

「ここに至るまで、未来へ未来へと子孫にしわ寄せを押し付けながら、ずるずる続けてきちまった政治っていうのは、始末に負えねえな。(略)連中がしゃべる言葉は泡(あぶく)みたいなもんで、(略)総統とか、その取り巻き みたいな連中も、実はそれだけのことだとおれは思っている。ということは、やつらをのさばらせているのは、つまるところ、おれたち、世間の“欲”だということなんだろう。それが膨れあがってバケモノに姿を変えている」(『岩場の上から』黒川創著、新潮社)

【次ページ:明るい未来にするために小説から学ぶ】