気づきを楽しむ――タイの大地で深呼吸(42) 写真・文 浦崎雅代(翻訳家)

現在、ウィリヤダンマ・アシュラムで説法をされる、弟子のスティサート師の話にもカムキエン師がよく出てくる。その中で新たな学びがあった。この時の説法では、有名な「毒矢のたとえ」を話された。ブッダがある尊者から「世界は有限か無限か」などの質問を受け、納得いく答えが得られない限りブッダのもとでは修行しない、と言われた際にブッダが用いたたとえである。

「もし毒矢を射られた者が、『私を射た者が誰か、どこの出身の者かを知らない限りは、この毒矢を抜いてはいけない』と言ったならばどうだろうか。答えを知る前にその毒が回って死んでしまうであろう」

要は、物事の根本的な道理や世界を成り立たせている要因といった形而上学(けいじじょうがく)的な答えを探すよりも、苦を解決して安らかに生きることを説く仏教において大切なのは、まず具体的に「毒矢を抜くこと」であるという内容である。

カムキエン師は生前の説法で『これはこれが原因、あれはあの結果、とあれこれ考え込んで事に当たるな』とよく伝えていたそうだ。一見、縁起の教えに矛盾していそうな言葉である。しかし、スティサート師は説法の中で、師匠の教えと「毒矢のたとえ」との類似点を指摘していた。私たちは日常の中で苦しみが生じた時、己の毒を抜くよりも先に、あれやこれやと原因を突き止めようと頭で考えてしまっていることが多いのではないか、という内容だった。そのたとえの解釈を、私は「形而上学的な議論に終始するな」だと思っていたが、苦しんでいる時の自らの身に置き換えると、望まぬ結果がもたらされた原因を探ろうとしてしまう自分を発見し、思い当たる節があるな、なるほど、と腑(ふ)に落ちた。

まず毒を抜く――カムキエン師にとってのそれは、苦しみを抱えた人や自然を前にした時の状況であり、いわゆる社会活動も含まれていたのかもしれない。あれが悪い、これが原因だと批判するような心を抱きながらやるのではなく、まず現実にある苦しみという毒を抜き、自他双方に安らかさを取り戻すというものだ。

苦しみとは何かを知った人たちは、より本質的な修行へと自(おの)ずから歩み出す。活動と修行とに矛盾はない。この世を去ってなお、カムキエン師の生き方が伝えてくれるもの――その学びは尽きない。

プロフィル

うらさき・まさよ 翻訳家。1972年、沖縄県生まれ。東京工業大学大学院博士課程修了。大学在学中からタイ仏教や開発僧について研究し、その後、タイのチュラロンコン大学に留学した。現在はタイ東北部ナコンラーチャシーマー県にある瞑想修行場「ウィリヤダンマ・アシュラム」(旧ライトハウス)でタイ人の夫と息子の3人で生活している。note(https://note.mu/urasakimasayo)にて毎朝タイ仏教の説法を翻訳し発信している。