気づきを楽しむ――タイの大地で深呼吸(33) 写真・文 浦崎雅代(翻訳家)

「あなたの体は、これまでにたくさん働いてきました。だんだんと弱まってきています。それは自然なことですよ。ですからもう、体は手放していきましょうね」

死を目前にしていると思われる方、あるいはすでに意識がない方に対して、スティサート師はこう耳元で穏やかに、かつ確かに伝えられた。自分自身の「体を手放す」という、誰しもが避けることのできない、いのちに与えられた課題。受け入れることが最も難しい最後の課題である。つらく、目を背けたい、認めたくないことではあるけれども、共に苦しみを抱える同志として、智慧(ちえ)と慈悲のこもった言葉を放つ。

私は注意深く、その言葉の先を見守っていた。「自然なことですよ」とスティサート師が語った瞬間に、パッと場の空気が変わったように感じた。その場にいる患者さんも、ご家族の方たちも、ふっと表情が和らぎつつ真実に向き合おうとする、しっかりとしたまなざしになった。まるで一瞬、涼やかな風が吹いたかのようだった。僧侶から気づきが放たれ、気づきを得た人たちが醸し出したものだろう。

もちろん、それでもなお、死に対する恐れや迷いは誰しも生じるだろう。「僧侶の言葉」というだけで心のありようが急に変わるというような、たやすいものではない。しかし、死という真実に丁寧に向き合う存在としての僧侶の姿が、多くの人の安らぎとなっていることは間違いない。

考えてみれば、僧侶という存在は、物理的には弱い立場に身を置く生き方だ。衣食住薬の生活の全てを在家者に委ね、他者の施しによって生かされて生きる存在。それは、同じく他者の支援なくしては生きられない、老いや病を抱えた方たちと共通するものがある。

思い通りにならないという苦しみと直面し、共に生きる同志。苦しみという課題が紡ぐ縁。私もまたその縁に連なる一人として、いのちの学びを続けていきたい。

プロフィル

うらさき・まさよ 翻訳家。1972年、沖縄県生まれ。東京工業大学大学院博士課程修了。大学在学中からタイ仏教や開発僧について研究し、その後、タイのチュラロンコン大学に留学した。現在はタイ東北部ナコンラーチャシーマー県にある瞑想(めいそう)修行場「ウィリヤダンマ・アシュラム」(旧ライトハウス)でタイ人の夫と息子の3人で生活している。note(https://note.mu/urasakimasayo)にて毎朝タイ仏教の説法を翻訳し発信している。