気づきを楽しむ――タイの大地で深呼吸(33) 写真・文 浦崎雅代(翻訳家)

タイのターミナルケアの現場から(後編)――いのちに与えられた最後の課題

先月は、ウィリヤダンマ・アシュラムのリーダー僧、スティサート師によるターミナルケアの実践の様子をお伝えした。病める人に対する師の触れ合いと、患者からの「タンブン(徳積み)」。タンブンという観念と具体的な実践は、タイ人の日常生活に溶け込んでいるが、死を前にした時、より一層その重要性が増してくることを痛感した。

タイには「福田思想」という考え方がある。サンガ(ここでは出家者を指す)は福をもたらす田んぼのような存在で、その田んぼに肥料を入れて豊かになれば、稲も豊かに実り、ひいては多くの人にもその福が還元されていくという思想だ。タンブンは自分自身の徳を増やす行為でもあるが、僧侶を支えることで福田が豊かになり、その恩恵はいずれ自分にも返ってくるという信仰観がそこにはある。それゆえ、病める人が捧げるタンブンも、目の前にいる僧侶個人に対するのではなく、僧侶という存在全体に向けてなされると解釈できよう。

僧侶もまた、「私(個人)」として患者と対面しているというよりも、僧侶という役割を通じて患者と出会う側面が大きい。病棟にいた患者の多くは、スティサート師と出会うのは初めてだ。にもかかわらず、心を開いてその場を共有することができる。僧侶という役割そのものへの信頼がなければ、成り立たない場面である。もちろん、僧侶個人のパーソナリティーは重要だ。病める方の元へ行き、いきなり説教口調で話すといった高圧的な態度を取る僧侶だと、こうしたターミナルケアの現場では難しい。スティサート師のように、まずはしっかりと病める人の傍らに立ち、他者の気持ちに寄り添えるような人でないと、センシティブな場面に立ち会うことはできない。

しかし、僧侶に求められているものは、患者さんの気持ちに寄り添うことや傾聴することだけにとどまらない。僧侶には、話を聞いてもらうこと以上に「心の苦しみを減らす」上での重要なポイントを伝えることが求められる。それは、患者、家族、看護者など、病を取り巻く全ての人に関係する、心の共通課題でもある。

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