清水寺に伝わる「おもてなし」の心(12)最終回 写真・文 大西英玄(北法相宗音羽山清水寺執事補)

純粋な使命感の集合体

私事で恐縮だが、二人の子宝に恵まれている。長女は将来ピアノの先生に、長男はサッカー選手になりたいらしく、子供たちなりに練習に励んでいる。夢に向かって尽力する、それはとても純粋なエネルギーだ。

一方で、大人になると、こんな経験に迫られることがある。やらなくて良いのなら本当はやりたくないけれども、これだけはどうしてもしなければならない、努めなければならないという場面だ。単純に比較できるものではないが、私は後者の方がある意味、純粋さのエネルギーが少し大きいように思う。なぜなら前者には、やめるという選択の余地があるからだ。

もっとも、夢をかなえる過程において、本当はやりたくないことをしなければという時もあるであろう。いずれにしても夢から次第に使命に変わっていく、その中で、やがてやりたい、やりたくないという主観から離れ、より純粋な使命感が育っていく――佼成会はそんな使命感をそれぞれがお持ちの集合体というのが、私の最も強い印象だ。

行を重ね、欲そのものを断つ、こうした手段は日本の仏教にも当然存在する。一方で当山の中興開山・大西良慶(りょうけい)和上は、我々が欲と定義するのは小欲であり、もっと大きな欲を持たなければならないと伝えていた。この大欲とはまさに使命そのものに他ならないのではなかろうか。そして、この大欲である使命を全うせんと尽力されているのが佼成会だ。

想像して頂きたい。自分に厚意を寄せてくれる相手からの誘いにイエスと言うより、ノーと返事する方が難しいし、気を使う。自らにとってある程度慣れ親しんだ、または快適な環境においては、75~80%でその場をやり過ごすことはできる。しかし、全く馴染(なじ)みのない、また困難に直面した時は、一挙手一投足に全集中、文字通り100%が求められる。つまり、苦しみは誤魔化(ごまか)しが利かないのだ。先人のこんな言葉がある。

「逆境にたって全ての欲とこだわりとを捨て去った時、人は思わぬ力を発揮することが出来る」(日清食品創業者 安藤百福氏)

「本当の人間の価値は全てが上手くいって満足している時ではなく、試練に立ち向かい、困難と闘っている時に分かる」(アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者 キング牧師)

使命を果たそうとするとは、まさに苦難の連続である。軍縮、核兵器廃絶、難民支援や環境問題、和解や平和教育、災害支援、人権問題等、途方もなく大きな諸問題解決に全力をもって取り組まれている皆様を前にすると、人智を超えたはたらき、神仏のご法光をあずかる思いに身が震える。僭越(せんえつ)ながら私自身もまた皆様と使命を共にし、微力ながら一層努めて参りたい。

末筆ながら、今回、直接お名前を記すことができなかった全ての先生方のお導きに、心より御礼申し上げ、本寄稿を結びたい。
(写真は全て、筆者提供)

プロフィル

おおにし・えいげん 1978年、京都府生まれ。2000年に関西大学社会学部卒業後、米国に留学。高野山での加行を経て、05年に清水寺に帰山し、僧職を勤める。13年に成就院住職に就任。14年に世界宗教者平和会議(WCRP/RfP)日本委員会青年部会幹事、19年に同部会副幹事長に就いた。現在、清水寺の執事補として、山内外の法務を勤める。日々の仏事とともに、大衆庶民信仰の入口を構築、観光客と仏様の橋渡しを命題とし、開かれた寺としての可能性を模索している。

【あわせて読みたい――関連記事】
清水寺に伝わる「おもてなし」の心