清水寺に伝わる「おもてなし」の心(6) 写真・文 大西英玄(北法相宗音羽山清水寺執事補)

新型コロナウイルス感染拡大防止のための外出自粛要請などに伴い、京都有数の参拝者数で知られる清水寺でもその数が激減した(清水寺西門付近)

利休の茶の極意

「『感謝』の反対は『当たり前』」という表現を耳にしたことがある。新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、我々を取り巻く状況は大きく変化した。今まで当たり前のこととすら認識していなかった環境が、実はどれだけ恵まれたものであったかを思い知らされている。

多くの方々の尽力によって少しずつ日常を取り戻しつつあるかもしれないが、それでもなお、予断を許さない。そもそも我々は紙一重の中、奇跡と呼べる集合体の上に生かされているにすぎないと、改めて自覚する日々だ。山内に立ち返ると、当然、参拝者は激減している。多くの方の良識ある行動を垣間見るという意味においては喜ばしいのかもしれないが、「おもてなし」という直接的法務からは、やはり縁遠くなってしまう。

有事と呼ばれる中、自らの心構えを尋ねられる時に決まって思い返すことがある。庭野日敬開祖様が『人生、心がけ』という御著書にて紹介されていた「利休七則」という千利休にまつわる逸話だ。弟子から茶の極意を尋ねられた利休は、以下の七つを答えた。「茶は服のよきように(飲みやすいように)点(た)て、炭は湯のわくように置き、花は野にあるように、夏は涼しく冬暖かに、刻限は早めに、降らずとも傘(かさ)の用意、相客に心せよ」。これを聞いた弟子は「そんなことなら、ことさら尋ねるまでもない」と言うと、利休は「これができたら、私はあなたの弟子になる」と話されたそうだ。

毎年5月23日に営まれる、音羽山を開山した延鎮上人と坂上田村麻呂公の遺徳を偲ぶ「開山忌」法要。大茶碗による四つ頭茶礼が行われる(写真=清水寺公式インスタグラムより)

御著書にはもう一つ極意の逸話が載っている。中国の鳥窠(ちょうか)禅師と白楽天の問答だ。木の上で坐禅を組む鳥窠を訪ねた白楽天は、「仏法とはどのような教えか承りたい」と問うた。すると「さまざまな悪をなさず、もろもろの善行を積み、己の心を浄(きよ)める。これが世に出られた諸仏の教えである」と答えられた。それを聞いた白楽天は、「禅師が言われるようなことなら三歳の童子でも知っておろう」と言うと、鳥窠は「三歳の童子でも知っていようが、八十の翁(おきな)も実行できないのだよ」と答えた。人は良くも悪くも慣れが生じ、そして飽きが生まれる。また、やりがいや達成感を実感したいと考え、新たな取り組みの方が魅力的に感じるものだ。

近年、「イノベーション」という言葉が独り歩きのようによく用いられる。新たな発明、技術革新、新機軸等の意味で使われ、事実、それらの積み重ねの恩恵によって現代社会は成り立っている。昨今の有事においても、例えばオンラインによる対面など、ひと昔前では考えられなかったことが現実となり、社会生活の支えになっている。しかし、どれだけ新しい取り組みであっても、その根底にはまず、誰でも始められることを、誰よりも丁寧に、大切に、そして継続して努めるという姿勢があってこそではないかと思う。

古今東西、本当の意味でのイノベーションを創造する人、世の中にて大を成した人々にはこうした共通点があると拝している。徹底的に向き合い続ける――だからこそ改良すべきところが見つかったり、余計なものを取り除いたり、然(しか)るべき道が見えてくるのではなかろうか。

「好雪片片不落別處(こうせつへんぺん べっしょにおちず)」という表現がある。一見するとバラバラと舞い落ちる一片(ひとひら)の雪も、必ずあるべき場所に落ちているという意味だ。「一輪のスミレのために、地球が回り、雨が降り、風が吹く」。これはアメリカ国立公園の父と呼ばれるジョン・ミューアの言葉だそうだ。自然は厳しいが、美しい。それは、ありのままの圧倒的なエネルギー、あらゆるいのちの働きが内在されているからだと思う。この、ありのままとは「何もしない」ではなく、余計な不純物が取り除かれているという意味である。

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