清水寺に伝わる「おもてなし」の心(8) 写真・文 大西英玄(北法相宗音羽山清水寺執事補)

手を合わせるだけでなく、仕事や遊びなど目の前のことに一心に尽くし、無心へと研ぎ澄まされていく過程こそ、仏教が理想とする「祈り」――「FEEL KIYOMIZUDERA」プロジェクトでは、さまざまな形で普遍的な「祈りの形」を表現する。昨年8月には陶芸家・桑田卓郎氏の作品展を開催した

本質に向き合う縁を得て、祈りの場として大きな力に

「晴れ時々曇り、ところによってにわか雨」

我々は、大小さまざまな不満があったとしても、総じてそれなりに日々無事で、安心できる生活の土台があり、そこに時折、にわか雨ならぬ大難小難が降りかかるといったイメージを持っていないだろうか。そんなイメージを今回のコロナ禍は一変させた。本来、苦が根本という仏教の教えが実感できる。もちろん、さまざまな場所で奮闘し、懸命に対処している方々に限りない敬意を感じ、また一刻も早い終息を念じてやまない。行政に対しても単に批判するだけでなく、前向きな善処のエネルギー循環につながればと願う。

その一方、こうした生活観の変化で、これまで見えにくかったものが鮮明になってきた。とにかく短い時間軸の中で早く結果を求め過ぎたことで、本質的な熟慮が不十分なままの社会活動が大部分を占めていたということだ。そんな継ぎはぎ的、場当たり的な施策の在り方そのものを見直すべき時であると突き付けられているように痛感する。清水寺もまた、継承されてきた本質に改めて向き合っている。

「マイクロツーリズム」という言葉をご存じだろうか。遠方に旅行するのではなく、身近な地域に足を運び、その魅力を再確認する取り組みだそうだ。

先日、有縁の方より、これに伴う提案を預かった。近隣の方々に改めて清水寺への参拝を促すため、この方の運営するウェブページに「このサイトを通して来山された方には○○をします」のような付加価値をつけて紹介できないかというものだ。地域を思うその心は大変有り難い。しかし寺の本質に立ち返った時、現下世相において伝えるべきは、目先の直接的な誘客ではないのではないかと考えた。

そこで、この方の意図とは異なるかもしれないが、以下のようなメッセージをサイトに掲載してもらえたらと逆提案させて頂いた。内容の一部はこれまで読者と共有してきたものと重複するが、ここに記載する。

「人の寿命を越えて受け継がれてきたもの、それは人の思い、つまりは自分や周りの幸せや喜び、無事や安心を願う心です。これを宗教では『祈り』と言えると考えます。

では祈ってどうなるのでしょうか。例えばただ空腹を満たすだけの食事と、愛する人と共にする食事は、例え同じものを食べたとしても味わいが違います。それはその時を本当に大切にしているかどうかで変わるのです。つまり心が純粋であれば、日々の有難さは変わってきます。祈るとは心の誤魔化しや取り繕い、不純を取り除く作業です。

昨今の世相を鑑み、今まで以上に皆様の祈りが求められると思います。近隣の社寺でも構いません。直接足を運ぶことが難しければ、自身の日常の場からでも構いません。共に祈りを捧げ、その心のもと、皆でこの困難を乗り越えていけたらと願っています。      音羽山 清水寺」

恐縮だが、広く社会から観光地として認知を頂いて、高い知名度をあずかることは大衆信仰の入口を担う当山として大変有り難い。ただし、大前提として“祈りの場”であるこの寺の本質に立ち返ることが、今、最も重要ではと考えている。

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