清水寺に伝わる「おもてなし」の心(9) 写真・文 大西英玄(北法相宗音羽山清水寺執事補)

昨年末、「今年の漢字」に選ばれた「令」を揮毫(きごう)する森清範貫主。毎年、一般投票で最も得票数の多い漢字が、その年の世相を表す字として清水寺で発表される(写真=筆者提供)

「伝える」難しさ

「寺なのにどうしてこんな悪い字を選んで書くのか」

毎年暮れに、日本漢字能力検定協会主催による「今年の漢字」発表奉納が当山で執り行われている。字の発表直後よりしばらくは、寺務所へさまざまな声が電話で寄せられる。

「令」や「絆」といった字であるならばよいのだが、過去に「毒」「戦」などが選ばれた年には、冒頭のような抗議の内容が多くなる。その時には決まって、「選ばれた字に関しては、当山や住職が決めているのではなく、一般投票の結果、最も得票数が多かったものが発表されています」と丁寧に説明している。

平成7(1995)年から始まり、お陰様で年末の風物詩としてかなりの認知をあずかっているように感じるが、実際、字の選定過程についてまだまだ伝わっていないものだ。

第7回の寄稿にて紹介した門前会を中心に、昨今のコロナ禍での寺や門前町のあり方について継続的な対話の機会をつくっている。そこで話題に上がったことが、「伝える」ことの難しさだ。

例えば、その回でも触れた同会との共同で営んでいる仏事の青龍会は、20年の節目を迎えたが、我々の実感よりもその認知度は低い。その現実を、つい最近も会員と改めて共有していた。そんな中、思い出すことがある。

京都に、創業460年になる「千總(ちそう)」という京友禅の老舗がある。毎年の明けに、同社有縁の顧客が全国より来山し、住職の法話を聞法して、本堂にて報恩感謝の法要に随喜される。そして、私が住職を勤める山内塔頭(たっちゅう)成就院にてお齋(とき)を召し上がる。その席で、同社の依頼にて昨年から成就院の説明と、少しばかり仏教の話をする機会にあずかっている。

週末2日間、一日2回の計4回、顧客の顔ぶれは毎回違うとのことだったが、私は全て違う話をした。なぜなら、顧客は皆違うけれども、そこには同じ千總の担当者が控えており、彼らに対して自らのできる限りを尽くす姿勢を示すという、私なりの意図があったからだ。幸いその意図は彼らに好意的に受け取ってもらえた。

一方で、住職は4回の法話を勤められたのだが、実は4回とも全く同じ内容であったと後で聞いた。もちろんどちらが正解という話ではない。ただこの時、「伝える」という行為の深さのようなものを感じた気がした。

人と人とのコミュニケーションには多種多様な場面があるだろうが、そこにおいて何を伝え、交換するのか。極論を言えば、それは気持ち、つまりは人のぬくもりに帰すると思う。喜びや幸せを願う心であれ、思いやりであれ、たとえ怒りや悲しみであれ、そこには感情という温度が内在する。

しかし、相手に伝えるのはなかなか容易ではない。長年共に過ごす家族であれ、パートナーや仲間であれ、愛情や友情という好意的な要素を伝えることさえ本当に難しい。

情報や選択の幅が広がり、我々の今日の環境は過去と比べて大変恵まれているはずだ。しかしその一方で、一つ一つの縁に向き合う熱量が減ったように思う。おそらく次の機会を想定してしまうからだろう。それは目の前の人に対してもしかりである。本来、享受している恩恵を活かし切れず、結果、相手に思いを「伝える」という作業を少々ないがしろにしてしまう傾向があることにも原因があるかもしれない。

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