心の悠遠――現代社会と瞑想(16)最終回 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)
さらなる旅へ 三つの習慣
一つ目の習慣は、「仏性」を観(み)ようとすることだ。これは、皆が共通して持つ、絶対的な尊厳と平等にある純粋な人間性というものが、私たちの心の奥底に必ずプログラムされていることを信じることである。仏性は人間を人間たらしめるものであり、ここを信じて疑わなくなれば、肌の色、髪の毛の色やスタイル、目の色といったさまざまな個人差は、全て余分なものとなる。たとえ文化的、民族的、宗教的に異なるバックグラウンドに立っていたとしても、それも全て余分なことである。単純にそこに人間がいるだけのこと。この気づきが大事だ。坐禅をしていても、単に人間同士が坐(すわ)っているだけ、お経を唱えていても、単に人間同士が唱えているだけのことである。われわれの名前もお経も関係なく、全て“星の名前”のようなもので、とらわれてはいけない。
二つ目の習慣として、「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心」を持つことである。これは、法華経にある「三車火宅」の話がよく教えてくれる。
自分の家が火事になっていることに気づいた主人は、燃えているのに気づかずに、おもちゃで遊んでいる3人の子供を何とかして家から出したい。「危ないから早く出てきなさい」と言っても、彼らは幼く、火事の危険も理解できないし、いっこうに出てくる気配を見せない。そこで主人は、子供たちが普段から欲しがっていた品を思い浮かべて、「ほら、いつも欲しがっていた、羊の引く車や、鹿の引く車、牛の引く車が外に置いてあるから早く出ておいで」と彼らに叫ぶ。こうして、一人ずつ外に出していくわけである。子供たちは手にしていたおもちゃを放り出し、急いで外に出てくるけれども、羊車、鹿車、牛車の影も形もない。そのことに気づいた子供たちは、「お父さんはうそをついた」と不服であるが、父親は子供たちの無事な姿を見て安堵(あんど)し、胸をなで下ろすのである。
この物語には深い意味がある。燃え上がる家は、私たち人間が今住んでいるこの世界を表していて、「火」は人間の煩悩を表現し、それが私たちの心身を焼き焦がしていくのである。私たちは果たしてそのような状態にある。しかし、今ここでは、何としてでも火事から子供たちを救おうとした父親の行動に注目したい。これはまさしく、救おうという目的のための「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心」にほかならない。言い換えるのであれば、禅語では「応無所住而生其心(おうむしょじゅう にしょうごしん)」という。つまり「応(まさ)に住する所無くして、而(しか)も其(そ)の心を生ずべし」で、芯をしっかり持った上での「臨機応変」「自由な心のはたらき」である。より良い社会と世界へ向かうための一歩一歩の努力において、禅を伝えるにも仏教を伝えるにも相手がいるため、いろいろな方法が必要である。異なった状況と常に変わりつつある状況に相応した手法が必要だ。法華経の「三車火宅」の比喩はそんなところも教えてくれる。