清水寺に伝わる「おもてなし」の心(3) 写真・文 大西英玄(北法相宗音羽山清水寺執事補)
自他一体を願って
当山の住職が時折する話がある。
とても仲良しの二人の女の子がいた。ある日揃(そろ)って散歩していると、一人が誤って穴に落ちてしまった。もう一人が慌てて学校の職員室に駆け込み、「〇〇ちゃんが『高い穴』に落ちてしまった」と叫んだのだ。幸い先生方によって無事に救出されたが、しばらくして、先生同士の間で先ほどの出来事が話題になった。
本来はおそらく「深い穴」が適当であったはずだが、先ほど助けを求めに来た子はなぜ「高い穴」と言ったのか――そのことが不思議だと、複数の先生が話していた。すると一人の先生が、「あれは『高い穴』で良い。穴に落ちてしまった子からしたら、下から上を見上げる。つまり、高い穴となる。もう一人の子はすぐさまそんな親友の立場や気持ちに同化したため、とっさに『高い』と表現したのだと思う」と言ったのである。
「助ける」と「助けられる」、仲良しの二人の女の子それぞれの視点。二つの話に共通すること、それはつまり別の立場同士が一体となること、少なくとも自他一体に近づかんとする心であろう。この心はあらゆる場面において非常に大切ではなかろうか。
立正佼成会の会員の皆様は、よく「学ばせて頂く」と表現される。自ら自発的に学んでいる訳ではあるが、そうした勉強の機会を頂戴(ちょうだい)しているという姿勢が故の表現と、拝察している。私もまた、参拝者を境内案内する際には、私が連れて行っているのではなく、皆様に参拝頂いたお陰にて、そのタイミングで各所に足を運ぶことがかなっている。つまり、私もまた皆様に連れて行って頂いていると考えている。こう得心すると、たとえ日々足を運ぶ諸堂であったとしても、毎回新たに感じるものだ。何かをあげているのではなく、貰(もら)っている。話しているのではなく、聞いてもらっている。我々が思う日常の関係性は、実は本来、主語と目的語が反対であることが想像以上に多いのかもしれない。