第七百四十一回波木井山川施餓鬼法要 庭野会長が参列し「おことば」述べる (動画あり)

第七百四十一回波木井山川施餓鬼法要

「第七百四十一回波木井山川施餓鬼法要」が8月19日、山梨・身延町にある波木井山円実寺で行われ、立正佼成会の庭野日鑛会長が参列した。新型コロナウイルス感染症が5類に移行し、行動制限が緩和したこともあり、4年ぶりに山梨県下の教会だけでなく、北関東、甲信、神奈川、東京西・東、多摩、静岡、中京の8支教区26教会から教会長、会員314人が参加。教団からは國富敬二理事長、熊野隆規教務部部長らが出席した。鰍沢教会と本部教務グループが受け入れにあたり、動画共有サイトを使ってライブ配信も行われた。

行動制限が緩和され、4年ぶりに各地の教会から会員が参列した

円実寺が創建されたのは鎌倉時代。甲斐国(現在の山梨県)の領主であった波木井公(南部六郎実長公)が、佐渡の流罪から戻り波木井山に入山した日蓮聖人に帰依し、身延山を寄進した後、波木井城を寺に改めた。その際、日蓮聖人によって「波木井山円実寺」と命名された。今年は、日蓮聖人が波木井山に入山し、身延山を開創して750年の節目に当たる。

境内に3000体の塔婆が安置された

当日は、僧侶によって謹写された3000体の塔婆(とうば)が境内に安置された。法要は午前11時から本堂で営まれ、読経、焼香、唱題に続き、僧侶によって参列者の身体健全などを祈禱(きとう)する修法が行われた。

この後、あいさつに立った円実寺住職の長谷川喜章上人は、日蓮聖人が佐渡へ流罪中に最蓮房という僧に送った手紙「諸法実相抄」にある「鳥と虫とは鳴けども涙おちず。日蓮は泣かねども涙ひまなし。この涙世間のことには非(あら)ず。ただひとえに法華経の故なり。若(も)ししからば甘露の涙とも云っつべし」との一節を紹介。日蓮聖人の流す涙は喜怒哀楽の涙ではなく、法華経に出遇(であ)い、仏の教えを悟ることができた法悦の涙であり、法華経によって衆生を救済できる歓喜の涙であると解説した。

当日の様子(クリックして動画再生)

その上で、「日蓮大聖人の慈悲のお心に感謝しながら、これからもより一層お題目『南無妙法蓮華経』を唱えて、いつも庭野会長先生から教えて頂いておりますように、身心共に元気で急がず息(や)まず、日々感謝して生き生きと精進して頂きたいと願います」と、参列者に呼びかけた。

続いて、庭野会長が登壇し、「おことば」を述べた。庭野会長は、初めて川施餓鬼法要に参加したのが昭和43年、30歳の時であると振り返り、「こうした伝統のある法要に参加させて頂けることは本当にありがたいことでございます」と述べた。

「おことば」を述べる庭野会長

さらに、日本人が忘れてはならない精神として、日本の以前の国号である「大和(やまと)」について言及。これは世界の平和が古今に通じる日本の本願であることを示していると説明した。その上で、日本の偉大な功労者である聖徳太子が「十七条憲法」で宣言した「和を以(もっ)て貴(たっと)しと為(な)す」との条文に触れながら、法華経に出遇った私たちは、法華経の「道場観」に説かれているように、身近な家族や隣人に対し慈悲の心を持って接し、大和の精神を忘れずにお互いに協力し合って世の中を明るくしていくことが大切なことではないかと語った。

久遠寺の持田総務と面会する國富理事長

なお、川施餓鬼法要に先立ち、國富理事長は18日、日蓮宗総本山・身延山久遠寺(山梨・身延町)を訪れ、持田日勇総務(本山藻原寺貫首)と面会した。

同寺の浜島典彦副総務・共栄部長、長谷川寛清執事・財務部長、本会の熊野隆規教務部部長、鈴木章浩教務部次長(教務グループ)が同席した。

本会と円実寺との交流

円実寺との交流は、昭和21年に庭野日敬開祖と長沼妙佼脇祖が七面山参拝の折、同寺に参詣したことに始まる。当時の本堂は古く、傷んでいたことから、その後、庭野開祖、長沼脇祖が「日蓮聖人の大恩人の波木井公のお寺をこのままにしておけない。私共も応援させて頂きます」と進言。やがて本会会員と檀家(だんか)信徒から浄財の支援がなされ、本堂が再建された。

以来、本会と同寺は親交を深め、庭野開祖が毎年、同寺の川施餓鬼法要に参列するようになった。平成8年の「波木井山開山・法寂院日圓上人第七百遠忌報恩(慶讃)大法要」に参列した庭野開祖は「お言葉」の中で、「日蓮聖人に帰依し身延全山を寄進した波木井公の精神こそ、私たちが見習うべき在家修行者の見本です」と述べている。