清水寺に伝わる「おもてなし」の心(3) 写真・文 大西英玄(北法相宗音羽山清水寺執事補)

努力する、精進するとは

禅宗では「片手の声を聞きなさい」という有名な話がある。例えば、子が学校から帰り、「ただいま」と言う。親はその音(声)を聞いて、「今日は学校で何か良いことでもあったかな」「今日は機嫌が悪いな」「少し疲れているかな」等々、我が子の様子がある程度想像つくものだ。これが「片手の声」であると定義される。その声は我が子を思う親だからこそ、はじめて聞こえる音なき音だ。両手は打ち合わせると音がする。では、片手ではどんな音がするかと真剣に“心の耳”を傾ける。もちろん自分と相手において、それぞれ受ける感覚に違いがあることを注意する必要もある。注意しながらも、どこまでも相手に寄り添おうと努める、その積み重ねが大切だと思う。

「努力、精進する」。さまざまな場面で、つい口にしてしまう。我々、宗教者も定義や意義をしっかり噛(か)み締めることなく、安易に使ってしまう。もちろん、そこに込められた意味合いが一つである必要はないが、少なくとも自分で定義していることがある。それは101パーセントの尽力をすることだ。

例えば初めての試み。現場では、とにもかくにも懸命に努める。先の見通しが想像できないからだ。まさに100パーセント努める。それが二度目、三度目、やがて日常となってくると、100パーセント努めると表現しても、必要とされる労力は減ってくるかもしれない。慣れ、経験のお陰であり、成長の証しとも言えよう。しかし現実は違う。一切無常であるが故に、現状維持するとは、その実、まるで“下りエスカレーターを上る”かの如(ごと)く、少なくとも同じ場所に立ち続けるには、常に一定の駆け足が必要だ。言い換えるならば継続的な100パーセントの労力が求められる。それに加えてもう1パーセント、これこそが努力であり、精進ではなかろうか。

常に、何か変われることはないか、慣れ親しんだ環境の中に自覚できていない気づきや学びはどこか、と心を砕く。どこまでも相手に寄り添おうとすることもしかりだ。合理的な近道は無い。改めて本当の意味での努力、精進を自らに言い聞かせている。

プロフィル

おおにし・えいげん 1978年、京都府生まれ。2000年に関西大学社会学部卒業後、米国に留学。高野山での加行を経て、05年に清水寺に帰山し、僧職を勤める。13年に成就院住職に就任。14年に世界宗教者平和会議(WCRP/RfP)日本委員会青年部会幹事、19年に同部会副幹事長に就いた。現在、清水寺の執事補として、山内外の法務を勤める。日々の仏事とともに、大衆庶民信仰の入口を構築、観光客と仏様の橋渡しを命題とし、開かれた寺としての可能性を模索している。