心の悠遠――現代社会と瞑想(4) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)

全ては真理の表れ

白隠が住持をしていた松蔭寺(静岡県沼津市原)が所蔵する白隠自筆の法華経細注を一見すれば、白隠がどれだけ法華経を真剣に学び、深く傾倒していたかは明らかである。数ある中からもう一点、白隠と法華経から学べることは「人間は皆、仏性を持っている」「全てに仏性は宿る」ということだ。

白隠の代表作の中に、わずか四十四句の短い和讃(和文でつづられた詩偈のこと)で著された『坐禅和讃』がある。現在の臨済宗の寺院では、毎日、法要の席でも必ず唱えられている重要なお経である。これがいつ書かれたかはここでは問題にしない。その『坐禅和讃』の中に次の句がある。

長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
(『坐禅和讃』)

大変興味深いことに、白隠は法華経第四章「信解品」の中で説かれる「長者窮子(ぐうじ)」の比喩を引くのである。この比喩の話はこう始まる。

一人の息子が幼い時に家出をして放浪するうちに乞食(窮子)となる。大富豪(長者)は、ある日、自分が父であることなど全く知らず、貧しい生活に慣れた息子を見つけ、自分の邸(やしき)でまずは使用人として雇い、汚物掃除の仕事を与えた。やがて巨大な財産の管理を命じ、ついに臨終の床で人々に彼が自分の息子であることを明かして一切の自分の財産を彼に相続させるというものだ。

神奈川・鎌倉市の建長寺で

この息子が汚物掃除をしている時、この大富豪が「おまえがここで仕事をしているのを見ると、おまえには、悪意も、不正も、不誠実も、傲慢(ごうまん)も見られない。また、猫かぶりもかつてしたことがないし、これからもしないにちがいない」と褒めたことは注目するべきである。

この話は、釈尊を大富豪に譬(たと)え、自らも仏となれるとは思っていなかった弟子たちを息子に譬えているわけだが、ポイントは「人間は本来清浄であり、平等であり、仏性を具(そな)えている」という点にある。実際、『坐禅和讃』は「衆生本来仏なり」と始まり、法華経思想の大眼目である「悉有(しつう)仏性」という教えとその広大な世界観を端的に表現している。

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