心の悠遠――現代社会と瞑想(4) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)
法華経と白隠の「生きた遺産」
日本臨済宗中興の祖として知られる白隠慧鶴禅師(1686-1769)は、一昨年、250年遠忌を迎えた。今日、日本に伝わる「臨済禅」の法系は全て白隠下になるから、現在の「臨済禅」は文字通り「白隠禅」と言ってよい。その白隠が42歳のある晩、法華経の「譬諭(ひゆ)品」にまで読み進んだ時、ちょうど、コオロギの鳴く声を聞いて、豁然(かつぜん)として、最終的に大悟したといわれる。その声を聞いて白隠は初めて法華経の深意を悟ったという。そのことを『白隠禅師年譜』は次のように記している。
(『白隠禅師年譜』龍澤寺版 1967)
コオロギの鳴き声が縁になって法華経を理解し、「譬諭品」の比喩が教える真理が解けたという。言い換えれば、コオロギの声に限らず、全ての現象や存在が真理や真実の表象であると、法華経の「諸法実相」の教えに気づくのである。法華経の内容は多岐にわたるが、その根幹にある一つは間違いなく、この「諸法実相」の思想である。つまり、全ての現象や存在(相=すがた)は、それがそのまま真理(諸法)を表しているという。
山や川や森などの自然や、また、花が咲き、鳥が鳴き、木が紅葉するという現象、さらには、建物、時計、車などの事物、これら全ての存在は真理や真実が表示された相として表れているのである。私たちは何かと通常、区別や判別をして物事の価値を決めてしまいがちである。もし、ありのままに物事を見つめようとするならば、真理や真実は全てのものの中に存在していると気づくはずである。