心の悠遠――現代社会と瞑想(2) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)
アメリカでの坐禅会活動
ニューヨークで爆弾事件(2017年12月11日)があった翌朝から4日間、コーネル大学でインターフェース(異宗教間対話)の坐禅会が行われた。夜8時に約20人の学生が教室に集まり、共に1時間坐(すわ)り、30分のディスカッションを行った。時間が足りないくらい活発にディスカッションが繰り広げられた。坐禅を通して仏性について考えた後、一人ひとりの持つ「純粋にして本来の人間性」を嵐の雷雲に隠れている月に例えてみた。
どんな嵐の雷雲の中でさえ、月は消えてなくなってしまうのではなく、見えなくなっているだけなのだ。常に月そのものはある。これと同じように、「純粋にして本来の人間性」、つまり、「仏性」もまた、一人ひとりに必ず備わっているのである。
その坐禅によって、一人ひとりの持つ「純粋にして本来の人間性」に気づくと、必然的に「和」の心、他者への「敬意・尊重」、他者との「共感」、他者との「つながり」、他者への「思いやり」、他者への「倫理的実践の心」という六つの気づきを得ることができる。その気づきを通して、それらが元々、一人ひとりの心の奥底に皆平等にプログラムされているものだということに気づかされる。この気づきの境地に達すれば、世の中を調和のとれた状態に保つことができるのだ。だから、坐禅は、より良い社会、より良い世界、より良いヒューマニティーの創造への鍵であると私は信じている。
みんな違って当たり前である。その異なる一人ひとりが平等に仏性を持っていると確信を持ちながら、一人ひとりの純粋な人間性というものを突き詰めていこうとするならば、自然に一つの輪ができて、平和なコミュニティー、社会、そして世界を創造できるのではないだろうか。
私は坐禅を「“心の床の間”を創出するテクニック」だと考えている。日本家屋にある独特の「床の間」は、本来は「無駄」な空間である。しかし、全体の空間そのものに落ち着きを創出するという、大変重要な役割を果たしているのだ。