心の悠遠――現代社会と瞑想(2) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)
純粋な人間性が、心の奥底に
米・コーネル大学でアジア研究学の修士号、ならびに宗教学の博士号を取得後、私は、カリフォルニア大学バークレー校仏教学研究所やスタンフォード大学HO仏教学研究所、セント・メリーズ・カレッジで教壇に立ちながら、定期的にこれらの大学やシリコンバレーのGoogle本社、ヴァージン・アメリカ本社で「禅マインドフルネス」と名付けて坐禅会や茶道体験セミナーを開いてきた。
これまで、特にカリフォルニアを中心に広がりを見せてきた「マインドフルネス」という流行語は、物事を批判したり、判断を下したりすることなく、あるがままに受けとめていくことによって、心身の健康や集中力、能力、効率、チームワークを向上させることができるという意味だ。マインドフルネス瞑想(めいそう)がさまざまなリーダーシッププログラムに使われてきているのはまさにこのためであり、瞑想とビジネスが結びついた一つの新しいビジネスモデルとなっている。
しかし、私の「禅マインドフルネス」の意味するところはこれとは異なる。私は、『瞑想とライフスタイル』というテーマを強調している。禅における坐禅は、自分の内側に清浄心(澄んだ鏡のような心)を目覚めさせることを目的としている。さらに、坐禅を通して「自分の中にいる、もう一人の本来の自己との対話」という禅的な体験を深めるため、「一期一会」「仏性」「感謝」の三つをキーワードにしている。
「一期一会」という言葉は、「同じ亭主と客が、同じ席、同じ菓子、同じ道具で茶事をする機会があったとしても、その日の茶事はその日にしか経験することができない」と教えている。つまり、その機会は二度と訪れることはなく、今という時は今しか経験できないということだ。そう考えると、人に対しても、物に対しても、時間に対しても、何ものに対しても「一期一会」、つまり、一瞬一瞬が一生に一度だけの出会いとなるのだ。
ブッダは、最後に「諸行無常」、全ての存在は必ず終わりがあり、永遠に続くものは何一つないと教えた。「昨日」という日はヒストリー、「明日」という日はミステリー、「今日」という日はギフトである。なぜならば、「今日」という日を“プレゼント(現在)”と呼ぶからだ。この「一期一会」と「無常」を理解するならば、何ものに対しても感謝の気持ちが生まれる。「今」「ここ」「自分」というものを常に意識し、今、即今、この場所、この日、この瞬間を大事に、感謝して生きることが大切なのである。