幸せをむすぶ「こども食堂」(10) 文・湯浅誠(認定NPO法人全国こども食堂支援センター・むすびえ理事長)
画・福井彩乃
宇和島グランマ
前回は、災害と隣り合わせになった私たちの「新しい日常」においては、平時・非常時を問わず人々とつながり続けることが大切で、コロナ禍でのこども食堂の活動はその一つのモデルを示した、というお話をしました。今回は、その事例を愛媛県宇和島市に見てみます。
愛媛県宇和島市は、平成30年7月の豪雨災害(「西日本豪雨災害」とも呼ばれました)で大変な被害を受けました。そこに松島陽子さんという方がいました。松島さんはPTA役員を務めていて、子どもたちを防災キャンプに連れて行ったりしていました。宇和島市は、近い将来に起こるかもしれないという南海トラフ地震が発生したら、10メートルの津波が来るかもしれないとされている地域です。
子どもが中学を卒業してPTA役員の任期を終え、〈PTAとしてやっていた活動を、今度は地域住民として行おう、それにはこども食堂だ〉と松島さんが考えていた矢先に、豪雨災害が起こりました。松島さんは友人たちと「宇和島グランマ」を結成し、被災者支援を兼ねたこども食堂を始めます。グランマ(祖母)という名称は、松島さんを含む4人の中心メンバー全員にお孫さんがいたことから、その名前になりました。
大きな災害を受けた地域では、復旧・復興のためのさまざまな作業が必要になります。家の泥出し、浸水してしまった家財の片付け、行政支援の手続き……。そうした地域総出の作業は「誰がそれをできないか」も逆にあぶり出します。孤立して身体も弱った高齢者などのお宅がふだん以上に見えてきます。全国のほとんどの地域と同じく、宇和島市も子ども・若者が減り、高齢者が増え続けています。いつ来てもおかしくない南海トラフ地震が起こったとき、このままでは大変なことになる、と地域の方たちは感じたことでしょう。松島さんたちの活動と呼応するように宇和島市内のあちこちで、こども食堂が生まれ、豪雨災害からの1年間で、それまでゼロだったこども食堂が市内13カ所に広がりました。
そして2020年、南海トラフ地震ではなくコロナ禍がやって来ました。性質はまったく異なりますが厄災であることに変わりはなく、困っている人が増えることも、ふだんから大変だった人がより大変になりやすいという傾向も、変わりはありません。松島さんたちはその渦中で、地元の事業者から食材などの寄付を募り、ひとり親家庭などに食材や弁当を配る活動を通して、宇和島市内の多くの方たちの暮らしを支えました。市役所も、その松島さんたちの取り組みをバックアップし、このことが数多く報道されました。宇和島市民は、そうした取り組みがなかった地域に比べて、「うちの市には支えてくれる人もいる」と感じられた人が多かったのではないかと思います。
大変なときに「どうせ誰も支えてくれない」と感じるか、「支えてくれる人がいる」と感じるかは、大きな違いです。たとえ自分自身はなんとかなっていたとしても、それでも誰もが「支えてくれる人がいるんだ、と実感できる地域で暮らしたい」と思うのではないでしょうか。それが日々の暮らしの安心感をつくり、「よい人たちが暮らしている」という地域への愛着を育み、地域のために自分にもできることがあるんじゃないかという気持ちを後押しし、地域の担い手を増やしていきます。それが、ふだんからつながりのある、災害に強い地域です。
プロフィル
ゆあさ・まこと 1969年、東京都生まれ。東京大学法学部を卒業。社会活動家としてホームレス支援に取り組み、2009年から3年間内閣府参与を務めた。現在、東京大学先端科学技術研究センター特任教授、全国こども食堂支援センター・むすびえ理事長。これまでに、「こども食堂安心・安全プロジェクト」でCampfireAward2018を受賞した。
幸せをむすぶ「こども食堂」