幸せをむすぶ「こども食堂」(12)最終回  文・湯浅誠(認定NPO法人全国こども食堂支援センター・むすびえ理事長)

画・福井彩乃

コロナ禍で見つけた大切なこと

2021年も残りわずかとなりました。

去年は未知のウイルスに見舞われる中、初の全国一斉休校、初の緊急事態宣言と、初めてづくしの一年でした。

今年はそれに比べると「異常事態に慣れてしまった」一年だったと感じます。全員がマスクをしている電車も、一席ずつパーティションで区切られたお店のカウンターも、コロナ前なら相当異様な光景だったはずですが、すっかり慣れてしまいました。一年のほとんどの期間が緊急事態宣言下で、「緊急事態宣言下の暮らしが日常」になっていました。

非常事態が常態化し、非日常が日常となり、例外が原則となって、慣れないことに慣れていき……と、どこかサカサマの世界を生きているような感覚です。今年の漢字一文字を選ぶとすれば、その意味で「逆」でしょうか。

しかし、改めて考えてみれば、これこそが「世の常」だったのだ、とも思い直します。ふだんはついつい、慣れ親しんだ今日の次には慣れ親しんだ明日が来るものと思ってしまいますが、そんな保証はどこにもない。未来はわからない。私たちは常に「一寸先は闇」の状態で、不確実性の中を生きている。それが私たちの生だという、あたりまえだけどつい忘れがちなことを思い出させてくれたのがコロナだった、とも言えるような気がしてきます。選ぶべき漢字は、不知や不明の「不」なのかもしれません。

しかし、「世の常」が不確かだからこそ確かさを求めようとするのも「人の常」です。コロナ禍、それは「エッセンシャル」と呼ばれました。命に不可欠、暮らしに不可欠という意味です。エッセンシャルなものは、病院であれスーパーであれ保育園であれ、コロナ禍でも閉めませんでした。新型コロナウイルスは命を脅かしますが、スーパーが閉まったら暮らしの成り立たない人が続出します。リスクがあっても開いたのは、それが“命対命”のバランスの問題だったからでした。ゆえに会食や観光は控えるように呼びかけられました。経済を回すためには必要でも命には代えられないからです。原則と例外が逆転したようなサカサマの世界においても変わらずに欠かせないエッセンシャルなものも、不確かさを思い知らされたからこそ見抜くことができたのだとも言えます。

そして私たちは、その確かさを、こども食堂や、こども食堂のような居場所をつくって運営する人々の想(おも)いに見いだし、「つながり」という言葉に凝縮してきました。原則と例外が逆転したような世界においても、人々は居場所を求め、つながろうとするのだ、と。なぜ人々がそのような行動を取るのか、そこにどんな意味があるのか、その理由をずっと説明したのが、本連載でした。その意味では「繋」という漢字も、捨てがたい。

来年、うまくいけば私たちはコロナの厄災から脱せられるかもしれません。それは間違いなく喜ばしいことです。しかし、それが、コロナ禍で多大な代償を払いながら見いだしたエッセンシャルなものを再び見えなくしてしまうのだとしたら、残念なこととも感じます。危機の中で見いだした本質を、危機が去っても忘れずに大切にし続けること。それが次の厄災に対する本当の意味での備えになる、と感じます。

プロフィル

ゆあさ・まこと 1969年、東京都生まれ。東京大学法学部を卒業。社会活動家としてホームレス支援に取り組み、2009年から3年間内閣府参与を務めた。現在、東京大学先端科学技術研究センター特任教授、全国こども食堂支援センター・むすびえ理事長。これまでに、「こども食堂安心・安全プロジェクト」でCampfireAward2018を受賞した。

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