「時代」の声を伝えて――文学がとらえた80年(23)番外編7 文・黒古一夫(文芸評論家)

人の心が置き去りにされると……

画・吉永 昌生

「心=精神」や「生命」が軽視されるような社会の中で、その代償を一手に引き受けざるを得なくなったのが、一般的にも制度的にも社会的弱者として扱われてきた「子供」と「老人」、そして性別で役割を定める社会的慣習によって弱い立場に置かれてきた「女性」であった。1999年5月に成立した「男女共同参画基本法」やそれから17年経った2016年8月に成立した「女性活躍推進法」は、近代(戦後)の日本社会の中で、いかに女性が「差別」的に扱われてきたか、を裏返し的に象徴するものであった。

とりわけ、次世代の社会を担うはずの子供たちの学校(教育)現場における「反抗・反乱」に対して、大人社会は「校内暴力」「不登校」の問題というレッテルを貼ってやり過ごそうとしてきた。70年代後半から80年代前半にかけて全国各地の中学校で顕在化した「校内暴力」が、90年代後半になると小学校にも飛び火する。揚げ句の果てに、2000年代に入ったところで小・中・高の合計で5万件を超えるまでになり、近代(戦後)社会を支えてきた「教育制度」が形骸化しつつある現実を、私たちは否応なく突きつけられるようになったのである。

子供たちの「反乱・反抗」を象徴するもう一つの現象として、大人たちの言う「不登校」がある。今年の10月25日に文部科学省が発表した「2017年度の不登校児数」によると、小学校3万5032人(4584人増)、中学校10万8999人(5764人増)で、この数は毎年増え続けてきたものだという。「不登校」の原因としては、「いじめ」とか「家庭環境」とか、教師と児童・生徒との関係を中心とした「人間関係」など、さまざまに指摘されている。しかし、端的に言って、「競争原理」に支配された学歴社会にあって、本来なら新しい「知」や「技術」を得ることで学びの「喜び」や「楽しさ」を味わうことのできる場が学校であるのに、いつの間にか「苦」と感じる場に化している現実が、なぜもっと指摘されなかったのか。そして、そうした現実をどう「変えて」いけば、子供たちにとって本当に必要とされる教育のあり方に近づけるのか。大胆かつ具体的な方策が社会全体に無いところに、全ての原因があるのではないだろうか。

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