「時代」の声を伝えて――文学がとらえた80年(16) 文・黒古一夫(文芸評論家)

「歴史認識」にこだわる

前回の冒頭で紹介したように、21世紀は「9・11」のアメリカ同時多発テロで幕を開け、その後は、現在まで「テロと戦争」に彩られた18年と言ってもよい様相を呈している。今回は、そんな「激動の時代」のただ中で私がどう過ごし、どんなことを感じ、考えてきたか、その一端を述べることで「歴史認識」と文学の在り方について考えてみたいと思う。

私は、「9・11」が起こる前年(2000年)の3月から8月まで在外研究でアメリカ(シアトル・州立ワシントン大学)に6カ月滞在し、その間にアメリカ全土を足早ではあるが、歩き回ってきた。そして、02年の4月と8月、04年11月、05年3月の4回、私用と大学の仕事でベトナム各地を訪れた。06年3月には1カ月間、スロベニアのリュブリャナ大学で客員教授を務め、07年10月には中国の北京と山東省で講演を行った。筑波大学を退職した翌年の12年9月から2年半、中国・武漢の華中師範大学日本語科大学院で日本文学を講じ、その後も北京、済南(山東省)、南京などの大学で集中講義や講演を行ってきた。さらに、08年3月には元気だった作家の立松和平氏とアメリカのケンタッキー州立大学で開かれた『環境と文学』がテーマの学会に参加するという、それまでの私の人生では考えられないような「慌ただしい」時間を過ごすことになった。

【次ページ:スロベニアと沖縄の意外な共通点】