「時代」の声を伝えて――文学がとらえた80年(14) 文・黒古一夫(文芸評論家)

画・吉永 昌生

自らの救いを求めて殺人まで

そんな「阪神・淡路大震災」からの復興を模索していた1995年の3月20日、通勤時間帯を走る満員の地下鉄車内に、「カルト教団」のオウム真理教の幹部信者が猛毒のサリンをまくという、前代未聞の驚愕(きょうがく)すべき「無差別殺人事件」が起こった。この「地下鉄サリン事件」によって、何の罪もない市民が13人死亡し、約6300人が負傷したが、その中には、いまだに完治しない人もいるといわれる。「カルト教団」とは言え、この世に生きることの「懊悩(おうのう)」から自分及び人々(衆生)を「救済」することを目的とする「宗教団体(信者)」が、教祖(麻原彰晃こと松本智津夫)の指示に従い、教団を守るためという理由で、地下鉄の車内に猛毒のサリンをまくという残忍性に衝撃が走った。日本社会がかつて経験したことのないテロ事件だ。

この「地下鉄サリン事件」後、それ以前の犯罪が次々と明らかになる。89年11月にも、教団の反社会性を批判、追求していた坂本弁護士一家を殺害し、94年6月には教団松本支部立ち退きに関わる裁判を有利に進めるために、長野県松本市の裁判官宿舎付近の住宅街にサリンをまき、一般市民7人を殺害(2008年にさらに1人死亡)するという「松本サリン事件」を起こした。さらにはオウム真理教の信者となった家族を救出するために奔走していた公証人役場事務長を拉致監禁し死に至らしめた。このように数々の「命の尊厳」を蔑(ないがし)ろにする凶悪事件を起こしていたのである。

このオウム真理教によって引き起こされた数々の凶悪事件は、普通の人々にとっては「不可解」としか言いようがないものであった。だが、実はバブル経済崩壊後の混迷と混乱の中、進むべき方向性を失っていた現代社会を象徴する出来事でもあったのである。だからこそ、宗教家や宗教学者はもちろん、多くの思想家や文学者がこの事件に深い関心を寄せることになる。

中でも私たちを驚かせたのは、デビュー作『風の歌を聴け』(79年)以来、『ノルウェイの森』(87年)、『TVピープル』(90年)、『ねじまき鳥クロニクル』(第1部~第3部 94年~95年)等々の長短編作品で、混迷するこの現代社会の中でいかにしたら自分の「居場所」を探すことができるのかを追求してきた村上春樹が、97年に地下鉄サリン事件の「被害者」にインタビューした結果をまとめた『アンダーグラウンド』を著し、翌年には事件を起こしたオウム真理教の信者や元信者に取材した『約束された場所で――underground2』を世に問うたことであった。

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