「時代」の声を伝えて――文学がとらえた80年(7) 文・黒古一夫(文芸評論家)
戦後日本の繁栄と引き換えに
特に、1972年5月15日までアメリカ軍の統治下(占領下)にあった沖縄の人々にとって、60年代半ばになって本格化したアメリカ(軍)のベトナム戦争への介入は、「平和」な本土(ヤマト)では考えられないような過酷な状況を強いられることになったのである。
65年に開始された北ベトナム爆撃(北爆)の主力は、沖縄の嘉手納基地所属のB52戦略爆撃機であったといわれる。このように、ベトナム戦争の激化に伴い補給基地・出撃基地としての役割を大きく背負わされた沖縄は、同時に死と隣り合わせの戦場から「一時休暇(保養休暇)」した将兵たちの「憩いの場所」にもなった。沖縄は、暴力事件や殺人事件、性的暴行などアメリカ軍将兵が起こす、さまざまなトラブルに見舞われることになったのである。
67年、大城立裕の『カクテル・パーティー』が、沖縄で最初となる芥川賞を受賞した。『カクテル・パーティー』は、占領下であると同時にベトナム戦争の後方基地=兵站基地・出撃基地でもあった沖縄において、「事件」に巻き込まれた沖縄人(日本人)はどのように振る舞うことが「正当=正統」なのかを真摯(しんし)に問う作品であった。
物語は、先の大戦中、兵士として、また通訳として中国大陸で生きてきたことから「加害者」としての意識を持つ、役所勤めの「私」と、戦時中に日本兵から性的暴行を受けた妻を持つ、共産党支配の中国からの亡命者で弁護士の「孫(そん)」、そして本土出身の新聞記者の「小川」が、基地内に住むミラーからパーティーに招待されるところから始まる。
「知的」な会話を楽しむ和気藹々(あいあい)のパーティーだったが、帰宅した「私」(作の後半では「お前」と呼ばれるようになる)は、自分の娘が、離れを貸していたアメリカ人のハリスから性的暴行を受けたことを知らされる。「私」=「お前」は三日三晩悩み苦しんだ末に、泣き寝入りせずハリスを告訴すると決意するが、娘は強く反対する。
基地に逃げ込んだハリスは沖縄の警察からの出頭要請を拒否し続け、「私」は相談したミラーからも、「これは、一対一の個人の問題であって、アメリカと沖縄(日本)との問題ではない」と突き放される。しかし、娘が被害者となった事件は、まさにアメリカ(軍基地)と沖縄との「差別」的な関係から派生したものだと考える「私」は、最終的に告訴を決意する。