食から見た現代(28) 手を差し伸べ合えるきっかけに 文・石井光太

写真はすべてピースプロジェクト提供
2024年1月1日、石川県珠洲(すず)市は能登半島地震によって壊滅的な被害を受けた。アスファルトには大きな亀裂が入り、マンホールが飛び出し、ところどころで冠水や土砂崩れが起きていた。
そうした中、震災翌日に東京を出発し、丸一日以上かけて能登半島最北東の珠洲市にたどり着き、いち早く炊き出しをした支援組織があった。認定NPO法人「ピースプロジェクト」である。
ピースプロジェクトは、3日の午後に避難所で400食分の豚丼を用意して配り、車中泊をしながら翌4日はおにぎり、スープ、炊き込みご飯などを、さらに5日には中華丼などを300~400食作って提供した。
「ピースプロジェクトは自衛隊より早く駆け付ける」
地元の人たちからはそんな喜びとも驚きともつかぬ声が上がった。
日本では、様々な支援団体が自然災害発生のたびに炊き出しによる被災者支援を行っているが、その活動に至る経緯や理念は千差万別だ。今回は、ピースプロジェクトの活動からそれを見ていきたい。
ピースプロジェクトの設立者の加藤勉氏(69歳)は、もとは災害支援とは無縁の実業家だった。現在も彼の肩書は、ライセンスビジネスを事業とする株式会社イングラムの代表取締役だ。
そんな加藤氏が支援活動にかかわるようになったのは、2001年のことだった。1992年に設立した会社が軌道に乗った頃、社員とのミーティングで、今後の会社のあるべき姿として、「利益を出すだけでなく、世の中に役立つ存在になる」ことが必要だという意見で一致した。
ただ、まだ社会にCSR(企業の社会的責任)の概念さえ十分に浸透していなかった時代。自分たちで直接何かをするという発想には至らなかった。
そこで当時、アフガニスタンやカンボジアの戦乱によって埋められた地雷で多くの民間人が死傷しつづけている問題に注目し、海外で地雷除去活動を行っている『国際NGO難民を助ける会(現AAR JAPAN、以下AAR)』へ売り上げの一部を寄付することにした。
数年間それをつづけた後、2007年に加藤氏は地雷除去活動を視察するためにカンボジアへ飛んだ。この時、彼は段ボール10個分のお土産を持って、児童養護施設を訪れた。すると、施設長に次のように言われた。
「ありがとうございます。おかげさまで、うちの子どもたちは、施設にいる間は食べ物に困らず、勉強もできるのですが、課題は施設を出た後なのです。彼らは手に職がないため、ちゃんとした仕事に就いて収入を得ていくことができません。今の彼らに必要なのは、魚(食べ物)ではなく、魚を取る方法(生活の術)を身につけることなのです」
加藤氏はこれを聞いて、これまで自分が考えてきた支援は、上辺(うわべ)だけのものだったと痛感した。そしてお金の寄付だけでなく、現地の人が必要とする支援をしようと心に決め、AARと共にスーダン、ハイチ、ラオス、ミャンマーなどで様々な活動をするようになった。
加藤氏の目が海外から国内に移ったきっかけは、2011年の東日本大震災だった。大地震と大津波による圧倒的な被害を目の当たりにし、発生から1週間後の18日にAARのメンバーらと共に宮城県へ向かい、用意した救援物資を避難所などへ運んだ。
数日後、加藤氏は宮城県内の高校を訪れていた。この時、校長からこう言われた。
「うちの学校は周囲が冠水して孤立していたせいで、1週間支援物資が届かなかったんです。ここにいるみなさんは温かな食べ物を求めています」
電気もガスも止まっている中で、ずっと寒さと不安に打ち震えてきたのだろう。缶詰やレトルト食品ではなく、体が芯まで温まる作りたての食事を提供したいと思った。
被災地での炊き出しの様子
ただ、AARが行っているのは支援物資の配達であり、現地での炊き出しのノウハウはなかった。そこで加藤氏は次のように思い至った。
「いったんAARの活動とは別に、避難所で炊き出しをしよう」
加藤氏がブログにそのことを書くと、これまでつながりのあった企業や個人からあっという間に数百万円の募金が集まった。
彼はそれを元手にAARのスタッフに助けを借りながら宮城県だけでなく、岩手県や福島県などの被災地を回り、ラーメン、ビーフシチュー、おでん、マグロ丼、お好み焼きといった炊き出しを行っていった。
東日本大震災発生からしばらく、行く先々で加藤氏らが行った炊き出しは歓迎され、「美味しい」と評判になった。
ところが、月日が経つにつれ、全国から様々な支援団体が被災地に集まり、あちらこちらで炊き出しを開催するようになった。そのため、被災者たちの間で“炊き出し飽き”が起きた。
炊き出しは老若男女に向けて100食以上を一度に調理するため、良くも悪くも献立が似たり寄ったりになりがちだ。カレーライス、牛汁、うどんといった定番は、どこも週に一、二度は作るため、被災者は数日おきに同じようなものを食べなければならなくなる。そうなればさすがにメニューを見て食べる気がなくなり、「またカレーかよ」「肉はもういいや……」という声が上がるのはやむを得ない。
加藤氏はこうしたことを憂慮し、陸前高田市でなかなか炊き出しには出されない食材を提供することにした。土用の丑の日に合わせたうなぎである。
予算に合わせて200食限定で提供することにし、本格的に炭火を焚(た)いてうなぎのかば焼きを作った。予想外だったのは、地元のテレビ局が高級食材を使った炊き出しが行われると聞き、朝のニュースで報じたため、想定外の人数の人たちが押し寄せたことだ。あっという間にうなぎは品切れになり、加藤氏らは遅れてきた人々に謝らなければならなくなった。
このように大災害の被災地の炊き出しには特有の難しさがあったが、その中でも地元の人たちと信頼関係が生まれ、新しい発見もした。
4月の終わり、南三陸の伊里前小学校の校長からこう言われたことがあった。
「うちの小学校は被災して卒業式ができませんでした。そこで1カ月半遅れで卒業式をやる予定なのです。もしよろしければ、ピースプロジェクトのみなさんに来ていただいて、子どもたちが喜ぶことをしていただけないでしょうか」
この小学校は地震と津波で被災し、避難所で暮らす卒業生も多く、式を祝う余裕もなかった。そこでピースプロジェクトに支援を頼んだのだ。
加藤氏は卒業式に参加する子どもや保護者を喜ばせるため、ビーフステーキ、オニオンソテー、おでんなどを振る舞い、卒業記念として当時流行していたキャラクターの大きなぬいぐるみを配った。祝辞の中で、校長は次のようなことを話した。
「みなさんにとって今回の大震災は大変な出来事だったと思います。ただ、この津波被害を目に焼き付け、これを語り継いでいくのも君たちです。これからは、この体験を活かすような生き方をしてください」
加藤氏はそれを聞きながら、今後の被災地の炊き出しに必要なのは、胃を満たすだけでなく、そこに集まった人々がつながり、新しいことを創出していく環境を用意することではないかと確信した。
2011年の秋、ピースプロジェクトは正式にNPO法人となって独立した活動を行うようになった。





