気づきを楽しむ――タイの大地で深呼吸(25) 写真・文 浦崎雅代(翻訳家)

「名残惜しさ」を別れの時に表現すること、それは日本的な文化なのかもしれない。それが相手へのマナーであり、優しさ。ずっと一緒にいたい、一緒にいたことを心地よく感じているので、別れがつらい。自然とその気持ちが出てくることもある。ただ、タイでのあっさりしたお別れの体験が増えてくると、感情を無理に表現しない別れ方も悪くないと感じるようになった。おそらくこの感覚は、日頃トレーニングしている気づきの瞑想(めいそう)とも関連しているように思う。

気づきの瞑想。それは、「今、ここ」に気づく、自分自身を感じる練習である。自分の体、感覚、感情や思考などをよく観(み)ていく。すると、生じては消え、生じては消えを繰り返していることが分かる。生じているうちは生じていることに気づき、それが消えれば消えたことに気づく。実際、思考や感情は、気づいていない時は、すでにはまり込んでしまっているのだが、気づけばフッとそれらは消えている。今の感情を味わっているので、名残惜しいと感じることが少なくなってきたのだった。

この変化は、自分の中でとても大きい。出会いがあれば、別れがある。これが自然のプロセスであり、真理だ。今、生じているこの出会いを大切にしながらも、別れを嫌悪したり、悲壮感にはまり込んだりせずに、別れは別れのままで味わう。そんな感覚になってきた。

別れ際に、自分が今、何を感じているか。切なさや悲しみなどの感情を抑え込むのでもなく、無理して表現するのでもなく、ただただ感じてみる。出会いだけが良いのではなく、別れもまた良し。いずれかにだけ価値があるのでも、優劣があるのでもない。

別れの時に表れる、さよならのたたずまい。別れに気づきを添えると観えてくる、自然な姿から、これからも真理を学んでいきたい。

プロフィル

うらさき・まさよ 翻訳家。1972年、沖縄県生まれ。東京工業大学大学院博士課程修了。大学在学中からタイ仏教や開発僧について研究し、その後タイのチュラロンコン大学に留学した。現在はタイ東北部ナコンラーチャシーマー県でタイ人の夫と息子の3人で生活している。note(https://note.mu/urasakimasayo)にて毎朝タイ仏教の説法を翻訳し発信している。