忘れられた日本人――フィリピン残留日本人二世(9) 写真・文 猪俣典弘

1980年代初め、消息不明だった3人の1人である妹とダバオで再会できました。当時4歳だった妹は、母親やきょうだいとはぐれ、一人でジャングルをさまよっていたところを地元の先住民夫婦に保護され、育てられました。両親ともに日本人である幼子を、反日感情の強いフィリピンで大切に育ててくれた先住民夫婦の愛情と苦労の大きさは想像に難くありません。

戦争で生き別れた妹弟を捜す照子さん

自力で実現した奇跡のような再会は、照子さんにとって、残された妹・麗子さん、弟・清さんを捜し出す原動力となりました。照子さんは、今でも2人が夢に出てくると言います。フィリピン、あるいは日本で何とか生きていて、自分を見つけられるのを待っているはず。今回、照子さんが東京に来た目的も、都会の人混みの中で2人を見つけられるかもと考えたからです。きっと、妹、弟と同年代を見かけるたび、「もしかしたら」と思ったことでしょう。戦後、妹弟をフィリピンに残したままでいる後ろめたさ、2人は生きているはずだという希望――照子さんにとって、戦争は今も終わっていないのです。

80年が経過し、照子さんの願いがかなう確率は決して高くありません。しかし、過酷な戦争を生き延びた92歳の照子さんが、その可能性を信じている限り、私たちも思いを共にし、“きょうだい捜し”の手伝いをさせて頂くことにしました。

こうした「親族捜し」は、これが最後のタイミングになるかもしれません。そして、いまだ戦争によって家族と引き裂かれた人たちが苦しんでいることを、多くの方たちに理解して頂く最後のチャンスかもしれないのです。

私たちは、これまで培ってきた経験と人脈を駆使して、「照子さんのきょうだい捜しプロジェクト」を立ち上げました。日本、フィリピン両政府はもちろん、フィリピンの地方自治体、警察、地元メディア、先住民族グループを巻き込んで、できる全てに取り組む覚悟です。

照子さんたちご家族の上に、神仏のご加護がありますことを祈ります。

プロフィル

いのまた・のりひろ 1969年、神奈川県横浜市生まれ。マニラのアジア社会研究所で社会学を学ぶ。現地NGOとともに農村・漁村で、上総堀りという日本の工法を用いた井戸掘りを行う。卒業後、NGOに勤務。旧ユーゴスラビア、フィリピン、ミャンマーに派遣される。認定NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)代表理事。

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