忘れられた日本人――フィリピン残留日本人二世(6) 写真・文 猪俣典弘

日系人会創立の総会に出席した、越川和彦駐フィリピン日本国大使(中央)とパラワン日系人会のメンバー

「世界で最も美しい島」パラワンに残留した日本人の末裔たち

パラワン島に刻まれた虐殺の歴史

世界で最も美しい島と評されるフィリピンのパラワン島。南北400キロにわたる細長いこの島は、大自然が手つかずの姿で残ることから“フィリピン最後の秘境”と称され、世界中から観光客が訪れます。しかし、この美しい島には悲しい虐殺の歴史があり、戦後長らく多くの残留日本人二世たちが無国籍のまま取り残されていたことは、近年までほとんど明かされませんでした。

戦前、この島には約300人の日本人が住んでいたと記録されています(1930年の国勢調査)。移民として海を渡った彼らは、鉱山技術者、大工、漁業、パン職人、雑貨商などさまざまな職業に従事し、現地の女性と結婚して家庭を築いていました。

戦後77年、名乗りを上げたパラワンの残留日本人二世

私たちが初めてパラワン島へ調査に赴いたのは2012年。当時、私たちが把握する島の残留日本人二世はわずか2人でした。その後、多くの人たちが長い沈黙を破って名乗り出て、現在は53人を数えます。皆が厳しい戦後を生き抜くため、日本人であることを隠し、口を固く閉ざしていたのでした。

太平洋戦争の勃発とともに、父の国と母の国のはざまで引き裂かれ、戦後は混乱の中で地域住民から憎悪の目を向けられる――命の危険に怯(おび)え、恐怖の中で生き延びてきた苦難の証言に、私は何度も言葉を失いました。

パラワン島に住む日本人の多くは、民間人でありながら抗日ゲリラに連行されて殺害されていました。なぜ、これほど多くの民間人が犠牲となったのか。その背景には、日本軍による島民への虐待と殺害、そして米軍捕虜の大量虐殺という事実があったのです。

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米軍捕虜の大量虐殺が招いた報復の連鎖

日本軍は、「バターン死の行進」で、捕虜の米兵をパラワン島に連行して飛行場設営などの労働に使役させていました。日本軍の戦況がいよいよ危うくなってきた1944年12月14日、米軍捕虜150人を地下壕(ごう)に入れて、生きたままガソリンをかけ、手りゅう弾、たいまつを投げ込み虐殺を図りました。地上に這(は)い出して逃亡を試みる捕虜もいましたが、ほとんどが射殺されました。何とか逃げ切り、抗日ゲリラの手を借りて生き延びたのはわずか12人。彼らによって日本軍の蛮行が明るみに出たことで、島民たちの憤怒は戦前から移住していた日本人移民とその末裔(まつえい)に向けられたのです。

米兵虐殺事件の記念碑。被害者全員の氏名が刻まれている
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残留者の一人である大下フリオさんは、自宅に押し入ってきたフィリピン人ゲリラに「自分の命は差し出すから、妻と子どもだけは助けてくれ」と懇願する父の声が今も耳から離れないと語りました。家の中で小さくなり、震えていた大下さんの耳に、父を射殺する乾いた銃声が聞こえたと言います。

パラワン島で日本人移住者がフィリピン人と築いてきた信頼関係は、粉々に砕け散りました。

長い沈黙を超えて

フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)が現地に入って聞き取り調査などを進めていく中で、パラワン島の日系三世たちの間から、新たな動きが生まれてきました。

2022年5月28日、ひた隠しにしてきた日本人としてのルーツを確認したい、フィリピン各地の日系人社会とつながりたい、日本語を学びたいと願う日系三世15人が、日系人会設立の準備でパラワン州都のプエルト・プリンセサに集まったのです。そのうち3人は、旧知の仲でありながら、互いが日系人であることを知らなかったのです。会場でその事実を知り、大きな驚きと喜びを分かち合う場面がありました。日本人のルーツを持つことが、この地でいかに長らくタブーであったかを思い知らされる出来事でした。

日本人であることの苦しみが喜びへと変わった日

同年8月27日、州都内のホテルは熱気に包まれていました。他の地域の日系人会に遅れること数十年、戦後77年にして初めてパラワン島に日系人会が誕生したのです。分断、沈黙を強いられてきた日系人たちが、困難を乗り越えて再び結集する日となりました。

総会には越川和彦駐フィリピン日本国大使を迎え、パラワンの日系人たちの苦難の戦後を踏まえ、平和のために果たすべき役割、日本とフィリピンの架け橋となる存在への期待が語られました。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)駐フィリピン代表からも、日本国籍の回復に向けた支援の約束がなされ、参加者たちは大いに勇気づけられました。

日本人の子という重荷を背負って生きてきた戦後でしたが、ついにパラワンの日系人にも大きな転換の時がやってきたのです。自分たちが生まれてきた証しを、苦しみではなく喜びとともに語れる時代がやってきたのです。一方で、この島には、いまだ無国籍状態にある11人の老いた残留日本人二世が暮らしています。またフィリピン全土では、数百人が細くなっていく命の灯火(ともしび)を燃やしながら、日本国籍の回復を信じて祈るように日々を過ごしています。

太平洋戦争開戦から82年。大切な家族を遺(のこ)し、無念のうちにこの地で命を落とした日本人の父親たちから、「息子、娘たちを頼んだぞ」と託されている気がしてなりません。

プロフィル

いのまた・のりひろ 1969年、神奈川県横浜市生まれ。マニラのアジア社会研究所で社会学を学ぶ。現地NGOとともに農村・漁村で、上総堀りという日本の工法を用いた井戸掘りを行う。卒業後、NGOに勤務。旧ユーゴスラビア、フィリピン、ミャンマーに派遣される。認定NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)代表理事。

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