忘れられた日本人――フィリピン残留日本人二世(8) 写真・文 猪俣典弘

ベンゲット道路の工事現場で働く日本人労働者(1904年ごろ)

忘れられた120年前の記憶

フィリピンに職を求めた日本人移民

連載1回目で記したように、約120年前の日本は経済的に疲弊し、急激な人口増加もあり生活に困窮する人々が増えました。貧しい農村の次男や三男たちが新天地で一旗揚げようと、海外への出稼ぎブームが沸き起こりました。

渡航先は、南米や北米、東南アジア、オセアニアなど多岐にわたります。フィリピンにも、1903年から04年にかけて約5000人が海を渡っています。現地での職業は、建設や林業労働者、農業、漁業、商業などさまざま。性労働に従事する「からゆきさん」と呼ばれる女性も数多く海を渡りました。当時、海外では日本の賃金の数倍を稼ぐことも夢ではなかったのです。

しかし、海外での就労には高額の手数料、渡航料が発生する移民取扱会社に依頼する必要がありました。そのため、「密航者」として中国やシンガポールなどを経由し、命懸けの長い船旅の末にフィリピン最西端のミンダナオ島サンボアンガ市を「裏玄関」として入国する人も多かったです。

フィリピン社会に受け入れられ、繁栄を築いた日本人

フィリピンに入植した日本人労働者たちは、マニラとルソン島中部の高原都市バギオを結ぶ難工事「ベンゲット道路」の建設に従事しました。道路は、悪天候による地すべり、雨期の感染症流行などを乗り越え2年をかけて完成。その後、彼らはフィリピン全土に離散し、雑貨商、時計職人、写真家、漁師などさまざまな職に就きました。特に、手先の器用な日本人の大工は高い需要がありました。全土の残留日本人二世から「父は大工で、地元でも評判の腕前でした」という声を耳にします。

ダバオの麻農園で働く日本人家族(1930年代)

さらに、広大な未開拓地が残っていたミンダナオ島に入植し、原生林を開墾してアバカ(麻)農園の運営に乗り出す日本人もいました。当時、第一次世界大戦で麻の価格が高騰し、ミンダナオへの入植ラッシュが起こります。フィリピン人女性と結婚する人も多く、各地に日本人学校が建立され、バギオなど都市の目抜き通りに日本人が経営する雑貨店や写真館などが並びました。フィリピンの人々に受け入れられ、地域コミュニティーに根差した日本人社会が各地に誕生したのです。太平洋戦争前夜、フィリピンに暮らす日本人移民は3万人に達し、その半数は沖縄県出身者でした。沖縄の極度な貧困が、その背景にあるといわれます。

ダバオの原生林を開拓する日本人労働者(1920年代)

敗戦後、日本は朝鮮特需などで焼け野原から復興を遂げ、70年代以降は高度経済成長を実現、80年代以降はフィリピンやベトナムなどから「興行」「技能実習」などの在留資格を与えて多くの外国人労働者を入国させてきました。しかし、日本に暮らす私たちは、120年前に海を越えた私たちの同胞を迎え入れてくれたフィリピン社会のように、海外からの隣人たちを自分たちの共同体に受け入れてきたでしょうか。

新たな時代の幕開けとなる日本人移民120周年

現在、海を渡ってフィリピンに入植した日本人移民の末裔(まつえい)たちが「日系人」として来日しています。彼らは時折、フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)東京事務所に顔を見せ、相談事や近況報告をしてくれます。この原稿を書いている日も、千葉県に暮らす母娘が来てくれました。三世である母親はこれまで、一人娘の学費を捻出するため弁当づくりや工場労働などで働き詰めで、昨年には背骨を傷めて手術をし、体の痛みで働けないそうです。日系人の多くは、自動車の部品工場、ホテルの清掃、宅配便の仕分け、総菜や弁当の製造工場など、私たちの「安くて便利な暮らし」を陰で支えてくれています。

PNLSC東京事務所に立ち寄ってくれた日系三世親子

彼らの多くは、日米の激しい地上戦が繰り広げられたフィリピンに取り残されました。「敵国」である日本人の末裔として全ての財産を没収され、教育機会を失い、困窮の中を生き抜いてきました。日本人であることを背負わされて多くの苦難に直面してきたにもかかわらず、彼らの多くは日本という父の国、祖父の国に、愛情、憧れを抱き続けてくれました。

日本人が海を越えてフィリピンに渡ったのはわずか120年前。そのフロンティアスピリットを受け継ぎ、日系人三世、四世たちが再び海を越えて来日してくれています。国と国の関係に亀裂が生じた時、衝突の最前線に立たされるのは、いつの時代も移民とその末裔です。二つの母国のはざまで引き裂かれ、苦しい立場を背負わされる彼らは、逆に言えば、両国をつなぎとめる最大の架け橋であり、「平和な関係」を構築する大きな推進力です。

海を越えた先人たちの苦難の道のりに思いを馳(は)せ、その末裔たちの“今”に思いを致して頂きたいと願うばかりです。

プロフィル

いのまた・のりひろ 1969年、神奈川県横浜市生まれ。マニラのアジア社会研究所で社会学を学ぶ。現地NGOとともに農村・漁村で、上総堀りという日本の工法を用いた井戸掘りを行う。卒業後、NGOに勤務。旧ユーゴスラビア、フィリピン、ミャンマーに派遣される。認定NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)代表理事。

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