清水寺に伝わる「おもてなし」の心(6) 写真・文 大西英玄(北法相宗音羽山清水寺執事補)

狂言師とのオンライン対談

先日、友人の狂言師とオンライン対談をした。狂言では「太郎冠者、次郎冠者、この辺りに住まいする者」という表現を使い、登場人物に特定の名前を付けない。これは演目が誰の日常にも起こり得る、そんな見る人との親近感を意図したものだと伺った。事実、ちょっとおっちょこちょいであったり、間抜けであったり、人情味があったりと、人間の喜怒哀楽が活き活きと描かれている。つまるところ大きな意味での人間愛がその根底にあるのでは、と話をしていたわけだが、狂言の歴史は約650年になるそうだ。

そんな対談を通して実感させられたことがある。諸行無常ではあるが、人間の寿命を超えて継承されていくもの、それは人の思いではないだろうか。つまり自他の喜び、幸せ、無事や安心を願う心そのものであり、少々乱暴な言い方かもしれないが、これを宗教では「祈り」と表すのではなかろうか。

伝統や文化、神社仏閣や歴史的遺産、医療をはじめあらゆる技術、しきたりや習慣など、大それたものだけでなく身近な日常の中にも、よく見ると継承されてきた人の思いを実感する場が数多く存在する。そもそも、先祖代々つながる家族、言うなれば我々一人ひとりの存在そのものもまた、思いが受け継がれてきた証拠そのものである。

もちろん意識して残そう、伝えようとする要素もあるであろう。しかし、その思いに不純物が取り除かれ、純粋になっていくのであるならば、姿形は違うかもしれないが、本質的な思いは自然と継承されていくのではなかろうか。つまり「残す」「伝える」という意思を超えて「残る」「伝わる」という表現がより腑(ふ)に落ちる。

尊敬する先生が以前、こんな話をしておられた。修行を重ねると喜怒哀楽がなくなるのではなく、喜怒哀楽が純粋になると。年を重ねていくと涙もろくなったり、感動体質になったりする話を時折耳にする。経験を重ねて物事の本質を理解することで、目の前の出来事への感性が純粋になってきたからと分析できるのかもしれない。人との比較、見栄や損得、打算的思考、他を基準とした感情から離れ、本当の意味で自らの心に立ち返るといったところだろうか。

我々はただ目の前に懸命に努める、その行の連続によって自らの思いをより純粋なものに近づけていく、するとその思いは然るべく受け継がれていくであろう。だからこそ、ある意味で安心して心身共々「今」に全力で向き合う、その一念に尽きるのではと考える。先に触れた利休七則や問答は、余計なものがそぎ落とされた、そうした一念を凝縮した表現と言えるのではないか。

冒頭述べた通り、新型コロナウイルス感染症の終息に向け、予断を許さない日々が続いていくが、何かを失う不安に心を砕くのではなく、「思いを残す」という意思を超え、「思いが残る」と願う心も超え、今を全力でという一念に立ち返る、そんな自らでありたいと省みる。
(写真は全て、筆者提供)

プロフィル

おおにし・えいげん 1978年、京都府生まれ。2000年に関西大学社会学部卒業後、米国に留学。高野山での加行を経て、05年に清水寺に帰山し、僧職を勤める。13年に成就院住職に就任。14年に世界宗教者平和会議(WCRP/RfP)日本委員会青年部会幹事、19年に同部会副幹事長に就いた。現在、清水寺の執事補として、山内外の法務を勤める。日々の仏事とともに、大衆庶民信仰の入口を構築、観光客と仏様の橋渡しを命題とし、開かれた寺としての可能性を模索している。