心の悠遠――現代社会と瞑想(13) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)

「今」こそが「幸せになれる場所」

このように、一人ひとりがそれぞれ貴重な存在である私たちは、それぞれが限られた貴重な時間と空間の中で生かされている。さらに、一瞬一瞬に誰もが「一番大事なもの」を選んだ結果として現在を生きているのである。人は皆、その時その時で「それが一番」と思って、選択してきている。それが結果的に、人それぞれの人生になっている。だから、人の人生にそもそも「正論」なんてものはないのではないだろうか。正論は、「無常」と「一期一会」、そして「一人ひとりの絶対尊厳」だけであろう。「私が選んだのは、この道」で良いと思う。しっかりと自分が選んだ道にロイヤルティー(忠誠)を貫くのであれば、それで良い。このロイヤルティーは「大信根」「大憤志」「大疑団」という三つの禅語で説明できる。

「大信根」は、自分をどこまでも信じてやること。一番信じやすくて、一番近くにいる存在が自分であるということに気づくこと。「大憤志」は自分がやらなければ誰がやる、という一つ強く高い志を持つこと。「大疑団」は、こうしたらもっと良くなるのではないかなどと、常に現状に疑問を持つこと。これら三つが使命、つまり、「いのちを使う」ということを全うする秘訣(ひけつ)である。

私たちの毎日の生活も、人生も、ただただ、一期一会である。今、今の連続である。今の中に過去が入っているし、今の中から未来が導かれる。だから、今、今、今だ。ここをどこまでも大事にしていくならば、臨済宗の中興の祖、白隠禅師が遺(のこ)した『坐禅和讃』の最後の一節、「当所即(すなわ)ち蓮華国」の意味が分かる。

つまり、今生きている時こそ、蓮の花の国(最高で最良の場所)である。私たちが生きている「今」こそが、「あなたが幸せになれる場所なんだ」ということなのだ。お互いの暮らしの道は違っても、ロバート・フロストの言う「一方の道」を選んだとしても、一人ひとりがそれぞれの絶対尊厳を尊び、感謝しながら毎日を生きていくところに生きがいがあると思う。幸福が感謝を生むのではない。感謝が、幸福の気持ちを生むのだ。

このことは、何も禅的特有なことでも、仏教的特有なことでもない。むしろ、異文化の中で、異なったバックグラウンドを持つ人々の中でも通じる道なのである。言い方を変えれば、世界をグローバルにつなぐ一つの道なのである。

プロフィル

まつばら・まさき 1973年、東京都生まれ。『般若心経入門』(祥伝社黄金文庫)の著者で名僧の松原泰道師を祖父に、松原哲明師を父に持つ。現在、米・コーネル大学東アジア研究所研究員、ブラウン大学瞑想学研究員を務める。千葉・富津市の臨済宗妙心寺派佛母寺住職。米国と日本を行き来しながら、国内外への仏教伝道活動を広く実施している。著書に『心配事がスッと消える禅の習慣』(アスコム)。

【あわせて読みたい――関連記事】
心の悠遠――現代社会と瞑想