心の悠遠――現代社会と瞑想(13) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)
ただただ、一瞬一瞬に生き切る
今、「ああしておけば、良かった」と思うことがあったとしても、数カ月もすれば、「やっぱりこっちを選んで良かった」と思うかもしれない。今、悲しくて耐え難いことがあったとしても、ひょっとしたら数年後には、「あの時つらい思いをしたから、今の私があるんだな」などと思うかもしれない。いずれにしても、考えても仕方のないことだ。それよりも、ただ、「今」という瞬間に、自分ができる最善を尽くす。「今」という瞬間に正直になる。「今」という瞬間に、後悔のないように、全力で生き切る。なぜならば、「今」という時間はもう二度と返ってこないからだ。まさに、一期一会である。
『金剛般若経』に、「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」とある。過去の心はすでに済んでしまったのであるから、もうない。未来はまだ来ていないのだから、未来の心もつかむことはできない。現在も、「今」と言ったら、その瞬間に今ではなくなるのだから、今もないのである。ただただ、一瞬一瞬に生き切るだけなのだ。そして、その一瞬を生き切るのが、過去にも未来にも、この広い世界にも、ただ一人だけという存在の「私」なのである。その私一人ひとりがこの絶対の尊厳を持っているのである。これを「仏性」といい、「唯我独尊」といい、「大海の一針」といい、これを自覚することが人生の第一義になる。
中国の唐代の禅僧百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の「一日作(な)さざれば、一日食らわず」という言葉は有名である。ある時、この百丈禅師に一人の僧が、「何が一番奇特(有り難い、素晴らしい、不思議)なことですか」と問うと、百丈禅師は「独坐大雄峰」と一言答えた。つまり、自分が今ここに生きて坐(すわ)っているこの事実、実際のこと、これ以上に有り難いことはないというのだ。こうして今現在、この瞬間瞬間に生かされているという不思議さ、有り難さ、尊さ、そういったものにどこまでも感謝するということである。