気づきを楽しむ――タイの大地で深呼吸(28) 写真・文 浦崎雅代(翻訳家)

旅を企画している時から、疲れない旅は始まっていた。目的や大まかな日程を確認した後は、リーダーのスティサート師をはじめ、皆さんが私に任せてくださった。日本への訪問が初めての方もいたが、必要最低限の質問以外は全くなかった。何が食べたいとか、どこに買い物に行きたいなどの希望はおっしゃらず、企画者である私がふさわしいと思ったことでいいですよ、という姿勢で一貫していた。

旅が始まっても同様だ。ほとんどの方の荷物は少なく、見た目も軽やかである。心の余裕もあり、時間も守ってくださるし、こちらの急な提案に対しても動揺することなくしなやかに受け入れ、その時その時の最善な選択を検討し、決定してくださるのだった。さらに、私の心が楽でいられたのは、一人何役もこなす私のことをさり気なく見守り、必要な時にさっと手を差し伸べてくれることだった。

ある日、回転ずし屋さんでの昼食後、次の予定まで時間に余裕があったものの、遅れたらいけないと思い、早めに移動を始めた。私は、時間が空いたら周囲の散策をしようか、と思っていたのだが、具体的な下調べをしておらず、空き時間を持て余してしまった。すると、その様子を察したスティサート師は、手にしたスマートフォンでマップを見ながら「この近くに、〇〇公園があるようですよ。そこで少し散策してはどうでしょう?」と提案してくれたのだ。絶妙なタイミングでの師の声掛けに、本当に私の心は軽くなった。もし威圧的な人だったら、「どうして下見をしていないんだ! 案内役なのに!」と私は叱られても不思議ではなかった。

しかし、スティサート師は、私が案内役だからといって、全てを任せっぱなしにはせず、何か困っている時にさっと動かれる。任せてくださるけれど、必要な時には自らも動く。心配し過ぎて、こちらを焦らせることなく、さり気ない形で。そうした空気感を師のみならず、皆から感じていたので、変にプレッシャーを感じることなく、私はお役目を精いっぱい果たすことができたのだった。

旅では、その人の普段の振る舞いや生き方が自然と表れる。修行している気づきの瞑想とは、日常の中で生かすことができるものだが、日常以上に思いがけないことが起こりがちな旅でも同様のようだ。共に旅することで、気づきをもって生きることのしなやかな力強さをひしひしと感じた。日常、非日常問わず、人生という旅で、この学びを生かしていきたい。 

タイ僧侶による講演会に参加した女の子とスティサート師

プロフィル

うらさき・まさよ 翻訳家。1972年、沖縄県生まれ。東京工業大学大学院博士課程修了。大学在学中からタイ仏教や開発僧について研究し、その後、タイのチュラロンコン大学に留学した。現在はタイ東北部ナコンラーチャシーマー県にある瞑想(めいそう)修行場「ウィリヤダンマ・アシュラム」(旧ライトハウス)でタイ人の夫と息子の3人で生活している。note(https://note.mu/urasakimasayo)にて毎朝タイ僧侶の説法を翻訳し発信している。