『心の悠遠――現代社会と瞑想』(1) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)

スぺイン巡礼で得た気づき

1999年10月、修行を終え、僧堂を出た私が初めにしたことは、スペイン最北端にあるキリスト教の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラを徒歩で目指す約800キロの旧道を巡礼することだった。当時、上智大学名誉教授をしておられたイエズス会の門脇佳吉神父からのお誘いを受け、参加することになった。この巡礼は、スぺインのカトリック教会側から「キリスト教日本伝来四五〇年」を記念する際に提案されたもので、カトリックの巡礼路を禅僧が歩くことによって、東西霊性の共存を象徴しようとするものだった。私のアメリカへの旅は全てここから始まったと言える。

キリスト教の聖地サンティアゴまでを徒歩で巡礼する松原師(ドキュメンタリー「道の譜」=撮影・編集/附田博=の映像より)

私は、世界中から集まってきた、異なった背景と目的を持つ巡礼者たちと共に、ピレネー山脈を越え、パンプロナ、ブルゴス、レオンの大聖堂を訪れ、使徒聖ヤコブ(スぺイン語でサンティアゴ)の遺体が眠っているサンティアゴ大聖堂へ巡礼した。歩くという「行」の共通体験をすると、宗教を超えた、共通項があるということに気づかされる。

例えば、メディテーション(瞑想=めいそう)。欧米での禅の人気の秘密は、メディテーションにあるといわれている。欧米の巡礼者たちは、「自分の中にいる、もう一人の本来の自己との対話」という禅的体験に興味を示す。それは、瞑想や黙想の概念がキリスト教にあるからだ。

カトリックでは、イグナチオ・デ・ロヨラによる「霊操」という修行がある。巡礼者との対話を通して、キリスト教における瞑想は、自分の外側にいる神の意志を知ること、つまり神との対話にあるのだと学んだ。禅の場合、坐禅は自己の発見装置と位置づけられ、自分の内側に清浄心(澄んだ鏡のような心)があると信じて、それに目覚めることを目的としている。自分の内と外という根本的な違いがあるものの、「本来の自己」に出会い、「仏性」または、「神」といった超越的な存在を認めようとすることは共通しているように思えた。

こうした共通点を発見した一方で、共に巡礼路を歩く他宗教の信者に「仏教とは?」「日本仏教とは?」「宗教とは?」と聞かれて、答えられない自分がいることにも気がついた。禅寺で生まれ育ち、禅の修行をして、「禅が分かった」「仏教を理解した」とすっかり思い込んでいたのだが、私が理解していた禅仏教は、自分が生まれ育った伝統の内側から見た、いわば、インサイダー的視点の禅にすぎなかったのだ。私を伝統から外に連れ出し、外側から客観的に見ることの必要性を分からせてくれたのが、この気づきだった。

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